1467–1603
戦国
戦国時代(1467-1603)——大名・大軍・剣聖、そして信長・秀吉・家康による天下統一。
収録人物 32 名
この時代の人物

SA-0054 / 生年不詳
井伊直虎
遠州井伊谷の女城主として井伊家を存続させ、直政を育てた戦国期の女性領主

SA-0062 / ?
石川五右衛門
秀吉暗殺未遂と釜茹での伝承で日本大衆文化の忍者盗賊像を形作った半伝説的人物
- 日
SA-0080 / 1440
日野富子
応仁の乱を動かし、我が子を将軍にせんとした室町の女性実力者、悪女の汚名を負った御台所

SA-0042 / 1489
塚原卜伝
戦国剣聖、生涯一度も敗れなかった鹿島新当流の祖
- 斎
SA-0078 / 1494
斎藤道三
一代で美濃を奪った下剋上の梟雄、娘婿・信長の器を見抜き、実子に討たれた『美濃のマムシ』

SA-0050 / 1497
毛利元就
弱小国人領主から一代で中国十か国の覇者となった戦国屈指の謀将

SA-0043 / 1508?
上泉信綱
新陰流の祖、戦国の剣豪将軍を育てた剣聖

SA-0072 / 1519
今川義元
駿河・遠江・三河を治め『海道一の弓取り』と称された東海の大名、桶狭間に散る

SA-0005 / 1521
武田信玄
風林火山の旗を掲げた甲斐の虎

SA-0030 / 1528?
明智光秀
本能寺の変で天下を変えた謀反人

SA-0006 / 1530
上杉謙信
毘沙門天を奉じた越後の龍

SA-0001 / 1534
織田信長
天下統一への道を切り拓いた革命児

SA-0066 / 1535
島津義弘
朝鮮の役で明軍から『鬼石曼子』と恐れられ、関ヶ原で『捨て奸』の中央突破を敢行した薩摩の猛将

SA-0002 / 1537
豊臣秀吉
農民から天下人へ昇り詰めた立志伝中の人

SA-0076 / 1538
前田利家
槍の又左と呼ばれた傾奇者から加賀百万石の礎を築き、豊臣政権を支えた五大老の一人
- 長
SA-0079 / 1539
長宗我部元親
『姫若子』と侮られた青年から四国を統一し、愛息の死に暗転した土佐の英雄

SA-0010 / 1542
服部半蔵
徳川の太平を陰で守った伊賀衆の頭領

SA-0059 / 1543
本願寺顕如
石山合戦で信長を十年苦しめた本願寺教団の最高指導者

SA-0011 / 1546
黒田官兵衛(孝高)
秀吉が誰よりも恐れた天才軍師

SA-0033 / 1546
武田勝頼
長篠で武田騎馬軍団を失った最後の当主

SA-0013 / 1547
真田昌幸
ひとつの小城から徳川を二度撃退した山岳の智将

SA-0063 / 1547?
お市の方
織田信長の妹、浅井長政の妻、後に柴田勝家の妻。戦国期女性の悲劇を象徴する『お市』

SA-0049 / 1548
本多忠勝
生涯五十七戦不傷と伝わる徳川四天王の槍の達人

SA-0012 / 1559
石田三成
豊臣家を守るため徳川と戦い、敗れた行政官

SA-0048 / 1561
井伊直政
「井伊の赤備え」を率いた徳川四天王最年少の猛将、彦根藩開祖

SA-0064 / 1561
福島正則
賤ヶ岳七本槍の筆頭、関ヶ原東軍先鋒、そして城の無断修築で改易された秀吉子飼いの猛将

SA-0018 / 1562
加藤清正
賤ヶ岳七本槍の戦士、四百年崩れない城を築いた築城の名手

SA-0017 / 1563
細川ガラシャ
夫の家を新時代に残すために自ら命を絶ったキリシタンの大名夫人

SA-0039 / 1565?
大谷吉継
敗戦を知って盟友三成と共に関ヶ原に立った智将

SA-0055 / 1569
立花誾千代
七歳で立花家家督を継いだ戦国期の女性領主、立花宗茂の妻
- 淀
SA-0082 / 1569
淀殿
三度の落城で肉親を失い、秀吉の側室として豊臣を背負い、大坂の陣に子と散った悲劇の女性

SA-0056 / 1572?
甲斐姫
忍城の戦いで水攻めに抗した二十歳の女武者、のちに秀吉の側室
この時代の記事
本能寺の変——なぜ明智光秀は信長を討ったのか
1582年6月のある未明、明智光秀は軍を返し、主君を炎の中に追い込んだ。なぜ謀反を起こしたのか、四百年経った今も歴史家は答えを出せていない。
関ヶ原——なぜ徳川は一日で日本を手に入れたのか
1600年10月21日、美濃の盆地に約八万ずつの軍勢が霧の中で対峙した。日没までに、その後250年の日本を決めた戦いは終わっていた。
服部半蔵と忍者の真実
歴史上最も有名な忍者は、おそらく忍者ではなかった。彼は伊賀という村出身の特殊兵を率いる、ごく普通の武士の指揮官であり、その事実は伝説の読み方を根本から変える。
関ヶ原を裏切った男たち——その後の運命
西軍の主要武将四人が、その日のうちに東軍へ寝返った。その三人は十年以内に没落した。残る一人は二百六十年後、徳川を倒す側の祖となった。
川中島——戦国最大の宿敵対決
五度の合戦、十二年、決着なし。武田信玄と上杉謙信が信濃の一河原で繰り返した邂逅は、日本人にとって「対等の宿敵」の原型となった。
敵に塩を送る——武士の義を定義した一手
1567年の冬、上杉謙信は宿敵・武田信玄に塩を送った、五度戦った相手にである。四百年後、この振る舞いは今も日本の倫理教育で「義戦」の最高峰として教えられる。
戦略は劇場である——なぜ秀吉は最高の軍師を中央から遠ざけたか
黒田官兵衛は戦が起こる前に戦の結末を読めた。秀吉は彼を恐れすぎたあまり、功績に見合わぬ九州の小領に減封した。その判断が戦国屈指の異色の軍師の生涯を形作った。
上田城——三千で三万八千を止めた話
1585年と1600年、真田昌幸は二度、信濃の小城で自身の何倍もの徳川軍を退けた。第二次の防戦は日本史の流れを変えた。第一次の防戦は彼がそのやり方を編み出した瞬間だった。
襖越しの一突き——細川ガラシャと関ヶ原前夜
1600年7月17日、関ヶ原本戦の三か月前、自害を信仰により禁じられたキリシタンの大名夫人は、家老に襖越しに長刀で討たせた。その死は彼女が見ることのなかった戦の流れを変えた。
熊本城——四百年崩れない城の設計
1601年から1607年に加藤清正が築いた熊本城は、その二百七十年後の1877年、薩摩軍が五十五日間攻めても落とせなかった。武士の遺産で実物として今日まで読める数少ない一つである。
伝説より長く生きた兄——なぜ真田信之は九十二まで生きたのか
真田信繁(幸村)は1615年、大坂で英雄として死んだ。兄・信之は関ヶ原で徳川側に付いた。弟より四十三年長く生き、明治まで続く家を築いた。この対比は武士の忠誠が実際に何を要求するかを語る。
山崎——わずか十三日の天下を秀吉が奪い返した日
本能寺で信長を討ってから十一日、明智光秀は二百キロを九日で駆け抜けた秀吉軍と山崎の渓に対峙した。日が暮れるまでに勝負はついていた。
丹波——光秀を信長軍の最強司令官に育てた十年
本能寺の変の七年前、明智光秀は丹波の山城に閉じ込められていた。1575年から1579年までの平定戦は信長軍の最も困難な遠征となり、終えた時には光秀は信長の最有力家臣に変貌していた。
小栗栖の竹藪——三日天下の人はなぜ土民に殺されたのか
山崎で破れた光秀は、坂本城まで二十キロを夜陰に紛れて走った。その途中、京都南郊の竹藪で土民の槍に斃れたと伝わる。事実か伝説か、史料は奇妙に沈黙している。
長篠——騎馬軍団が死んだ日
1575年5月21日朝、武田勝頼の精鋭騎馬隊は三段に並んだ織田鉄砲隊三千挺へ突入した。日没までに武田の譜代重臣は半数近くが死に、戦国最強と呼ばれた軍団は終わった。
天目山——武田家はいかに消えたか
長篠から七年、織田信長の甲斐侵攻軍が迫る中、武田勝頼は天目山の麓に追い詰められた。1582年3月11日、信玄死去から九年で武田家は終わった。
勝頼は何を失い、信玄は何を勝ち取ったのか
信玄期と勝頼期の武田家を比較した時、最大の差は人材でも兵力でもなく、外交環境だった。勝頼は信玄が築いた同盟構造を継承できないまま、織田の包囲網の中で戦うことになった。
直江状——一通の手紙が関ヶ原を呼んだ
1600年4月、上杉景勝の重臣・直江兼続は徳川家康に十六か条の挑戦状を送り付けた。返書は数か月以内に七十二万石の同盟軍を関ヶ原に呼び寄せ、日本史最大の合戦の引き金を引いた。
敗戦を知って参戦した男——大谷吉継はなぜ三成と共に死を選んだか
1600年8月、大谷吉継は徳川家康に従う準備をしていた。盟友・石田三成から挙兵計画を打ち明けられた時、勝算の薄さを冷徹に指摘した上で、それでも西軍に参加することを決めた。友情のために命を捨てた稀有な戦略判断である。
白頭巾——大谷吉継が病と戦った十年
1598年頃から重い皮膚病を患った大谷吉継は、白頭巾で顔を覆って執務を続けた。同時代の医学では治療不能だったハンセン病と推定される。病に侵された身体で関ヶ原の戦場に立った智将の十年。
白頭巾の最期——大谷吉継はいかに関ヶ原で散ったか
1600年9月15日午後、関ヶ原本戦の三時間目、松尾山から下りた小早川軍が大谷隊の脇腹を直撃した。続く脇坂・小川・赤座・朽木の四隊同時離反で陣形は崩壊、吉継は家臣・湯浅五助に介錯を命じて自害した。
二度の養子——小早川秀秋はいかに名前を変えたか
1582年に近江木下家に生まれた一人の男児は、三歳で豊臣秀吉の養子、十二歳で小早川家の養子と、十年で二度名前と一族を変えた。関ヶ原の裏切り判断の遠因はこの養子の連鎖にあった。
松尾山の二時間——小早川秀秋はなぜ正午過ぎに動いたのか
1600年9月15日朝、関ヶ原南方の松尾山に布陣した小早川秀秋一万五千は、午前中ずっと動かなかった。家康は鉄砲を撃ち込んで督促し、午後一時頃ついに秀秋は西軍を裏切り山を降りた。二時間の沈黙が戦国の終結を決定づけた。
黒田家からの退去——又兵衛はなぜ浪人になったのか
1611年、後藤又兵衛は仕えていた筑前福岡藩の黒田家を退去し、浪人となった。長政との関係悪化が直接の原因だが、武士社会の慣行を破った代償として奉公構を発令され、十年近く各地を流浪することになった。
百度の勝負——塚原卜伝はなぜ一生負けなかったか
戦国剣聖・塚原卜伝は十七歳から八十三歳まで六十六年の生涯で、真剣勝負十九回、他流試合数百回を一度も敗れなかったと伝わる。この無敗伝説は史実か誇張か、近年の剣道史研究はどう読んでいるか。
無手勝流——卜伝が剣を抜かずに勝った日
晩年の塚原卜伝は湖上の船で他流剣士に挑まれ、決闘場所を中州にしようと提案した。若い剣士が先に船から飛び降りた瞬間、卜伝は船を岸から離させた。「これが我が無手勝流である」という有名な逸話は、何を語っているのか。
鹿島から世界へ——卜伝が作った廻国修行の伝統
塚原卜伝は人生の大半を鹿島神宮で過ごしたが、晩年は諸国を巡って弟子を育てた。彼が確立した廻国修行の伝統は、後の剣豪たち(上泉信綱・宮本武蔵ら)が辿るルートを作り、日本の武道修行の標準形となった。
剣豪将軍の師——上泉信綱はいかに足利義輝を育てたか
室町幕府第十三代将軍・足利義輝は「剣豪将軍」として知られる。彼の剣才は塚原卜伝と上泉信綱の二人から伝授されたものとされる。1565年、義輝が松永久秀の襲撃で討たれた時、最後まで剣で抵抗した姿は、信綱の教えの体現だった。
新陰流——上泉信綱はいかに陰流を発展させたか
1560年頃、上泉信綱は師・愛洲移香斎から学んだ陰流を発展させて新陰流を編み出した。陰流から新陰流への変革は、戦国期の剣術理論の最大の理論的飛躍とされる。何が変わったのか。
無刀取——上泉信綱が素手で剣を奪った日
上泉信綱が大和柳生で柳生宗厳と対戦した際、最後の三度目の試合で信綱は素手で宗厳の刃を奪い取ったと伝わる。無刀取と呼ばれるこの技法は、新陰流の極意の一つとして後世に伝承された。
将軍家剣術指南——柳生新陰流はいかに国家の道となったか
1605年、柳生宗矩は二代将軍徳川秀忠の剣術指南役に就任した。父・宗厳から継いだ柳生新陰流が徳川幕府の公式剣術となった瞬間である。一流派が国家の道となる稀有な事例の背景を読む。
無刀流——山岡鉄舟が剣と禅を統合した日
1880年、山岡鉄舟は剣と禅と書を統合した一刀正伝無刀流を開いた。塚原卜伝の無手勝流、上泉信綱の新陰流の系譜上にある「剣の最終形」として、明治の剣道思想を再構築する試みだった。
五十七戦無傷——本多忠勝の伝説はどこまで事実か
「生涯五十七戦無傷」と称される本多忠勝の戦歴。具体的数字は江戸期編纂史料に依拠するが、同時代史料に大きな負傷の記録が見当たらないこと自体は研究者間で広く認められている。伝説と史料の関係を辿りながら、徳川家康に半世紀仕えた武将の実像を読む。
徳川四天王——酒井・本多・榊原・井伊はなぜ並び称されたか
酒井忠次・本多忠勝・榊原康政・井伊直政。徳川家康の軍事的中核を担った四人の武将を「徳川四天王」と呼ぶが、この呼称はいつ成立し、四人の選定基準は何だったのか。江戸期の家伝編纂と現代研究から、四天王の輪郭を整理する。
蜻蛉切——本多忠勝の愛槍と天下三名槍の系譜
本多忠勝の愛槍「蜻蛉切」は、御手杵・日本号と並んで「天下三名槍」と称された名物の長柄槍である。刃に止まった蜻蛉が二つに切れたという伝承から名付けられたこの槍の伝来と、忠勝の戦場での運用を史料から読み解く。
三本の矢——伝承の起源と1557年の三子教訓状
毛利元就が三人の息子に「一本の矢は折れるが三本束ねれば折れない」と諭した「三本の矢」の物語。しかし長男・隆元は元就より八年早く亡くなっており、伝承の場面は史実としては成立しない。原本が現存する1557年の三子教訓状から、本当の元就の言葉を読み解く。
厳島の戦い——元就はいかに陶晴賢の大軍を破ったか
1555年9月30日、毛利元就は厳島(現在の宮島)で陶晴賢の大軍を奇襲し、戦死させた。圧倒的劣勢からの逆転勝利は元就の生涯最大の転換点となり、その後の毛利家による中国制覇の基礎を作った。兵数の伝承と実態、戦術の妙、勝因の要素を史料に基づいて整理する。
両川体制——元就はいかに中国十か国を治めたか
毛利元就の真の業績は、次男・元春を吉川家に、三男・隆景を小早川家に養子として送り込み、両家を吸収する「両川体制」を構築したことにある。安芸の一国人領主から中国十か国の覇者へと一代で躍進した政治戦略の核心を読む。
井伊の赤備え——武田の精鋭はいかに徳川最強部隊となったか
1582年、武田家滅亡後、家康は武田の精鋭「赤備え」を二十二歳の井伊直政に与えた。山県昌景の朱色装備を継承した井伊の赤備えは徳川軍最強の象徴的部隊となり、関ヶ原までの全合戦で見栄えと実戦力を兼ね備えた。装備の継承から戦法の伝承までを史料に基づいて辿る。
島津追撃の銃創——直政の死を二年遅らせた関ヶ原
1600年9月15日、関ヶ原合戦の終盤で井伊直政は東軍中央突破を試みて退却する島津義弘部隊を追撃した。この追撃中に島津側の銃撃で受けた腿の銃創は致命傷とは見られなかったが、約一年半後の1602年2月に直政の死をもたらした。戦場での一発の銃弾が四十二歳の武将の生涯を閉じた経緯。
佐和山から彦根へ——井伊家二百五十年の基盤はいかに作られたか
1602年に井伊直政が没した後、息子の直勝・直孝の代に本拠を佐和山から新城・彦根へ移し、彦根藩三十万石が確立された。直政が築いた基礎が、江戸期を通じて譜代筆頭格・大老輩出家として続く井伊家の出発点となった経緯を辿る。
直虎は実在したのか——次郎法師の名と近年の史料研究
井伊家伝記が伝える『女城主 直虎』は、2016年頃から再検討の対象となっている。京都で発見された文書は、井伊谷を治めた『次郎法師』が男性であった可能性を示唆した。伝統像と一次史料の間の緊張を辿る。
父と従兄弟を失って——井伊家滅亡の危機と当主継承
1560年桶狭間、1562年今川による直親殺害。井伊家は二人の当主を三年で失った。井伊家伝記の伝える、寺から呼び戻された次郎法師(直虎)による家督継承の経緯を辿る。
虎松から直政へ——直虎が守った井伊家の未来
1561年生まれの井伊虎松は、父・直親の死により孤児となった。井伊家伝記の伝える、直虎の保護下での虎松の成長と、1575年の徳川家康への出仕までを辿る。
七歳の家督——立花道雪が娘に立花家を譲った日
1575年、豊後国の重臣・立花道雪は七歳の一人娘・誾千代に立花家の家督を譲った。戦国期の女性家督継承として異例のこの決定の背景を辿る。
別居婚——誾千代と宗茂はなぜ同居しなかったか
立花誾千代と立花宗茂の夫婦は、婚姻後も同居せず、それぞれ独立した屋敷を構えた。立花家伝の伝える『別居婚』の実相と、その政治的意味を辿る。
関ヶ原後の隠棲——誾千代の最後の三年
1600年関ヶ原、立花宗茂は西軍に付き改易となる。誾千代は宗茂と別行動を取り、肥後国腹赤に隠棲、1602年に三十四歳で没した。夫婦別離の最期を辿る。
忍城の戦い——1590年、二十歳の女武者が水攻めに抗した日
1590年、石田三成率いる二万余の秀吉軍が忍城を包囲し、水攻めを試みた。城主・成田氏長は小田原に詰めており、留守を守る者たちの中に二十歳前後の甲斐姫がいた。
秀吉の側室として——成田家保護と交換された甲斐姫
1590年、忍城落城後、甲斐姫は秀吉の側室として召し上げられた。父・氏長ら成田家の助命と引き換えの側室入りの経緯を辿る。
秀頼の後見役——甲斐姫の後半生と大坂の陣
1593年、豊臣秀頼が生まれた。太閤記は、甲斐姫が秀頼の後見役として仕えたと伝える。1615年の大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した後の甲斐姫の消息は、途絶える。
『信長は仏敵』——顕如はなぜ十年戦争を始めたか
1570年9月、二十七歳の本願寺法主・顕如は諸国の門徒に信長打倒の檄を飛ばす。日本史上最も長く、宗教と武力が絡み合った戦国末期の戦争、石山合戦の開始を辿る。
十年籠城——石山本願寺はいかに信長に耐えたか
1570年から1580年まで、石山本願寺は信長の包囲を十年間持ちこたえた。水城の地形、瀬戸内水軍の補給、諸国門徒との連携。宗教勢力が世俗大名を最も長く苦しめた籠城戦の実相を辿る。
西と東——顕如の死後、本願寺はなぜ二つに分かれたか
1592年に顕如が没した後、本願寺は長男・教如系と三男・准如系に分裂した。1602年、徳川家康の支援で教如が東本願寺を分立、京都に西と東の二つの本願寺が並立することになった。
実在したのか——五右衛門の史実性を史料から検証する
現代の日本人が『石川五右衛門』のイメージを共有していることは間違いない。しかし史実の五右衛門はどこまで確認できるか。同時代史料の断片と江戸期の物語化を区別する。
『絶景かな絶景かな』——南禅寺三門と五右衛門の名台詞
京都南禅寺三門の楼上に立つ盗賊が『絶景かな絶景かな、春の眺めは値千金』と詠嘆する場面。1778年初演の歌舞伎『楼門五三桐』の名場面は、現代でも南禅寺観光の定番説明として用いられる。
石川五ェ門とルパン——五右衛門は二十世紀にどう蘇ったか
1967年、モンキー・パンチのマンガ『ルパン三世』が連載開始。登場人物『石川五ェ門』は五右衛門の子孫という設定で描かれた。二十世紀日本の大衆文化の中で、五右衛門像がどのように再構築されたかを辿る。
姉川——お市の兄と夫が敵となった日
1570年6月28日、近江国姉川。織田信長と浅井長政が正面から衝突した。信長にとって長政は妹婿、長政にとって信長は義兄。お市の位置から見た戦国期政略結婚の破綻を辿る。
小谷落城——1573年、お市は三姉妹と共に城を出た
1573年8月、小谷城は信長軍に包囲された。夫・浅井長政は自刃、長男・万福丸は殺害、お市は三姉妹と共に城を出て兄・信長のもとへ戻る。戦国期女性の運命の分岐点を辿る。
北ノ庄——賤ヶ岳の負けが決まった夜、お市は自刃を選んだ
1583年4月24日、越前国北ノ庄城。賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉に敗れた柴田勝家と、その妻お市は、城の炎上を前に自刃した。三姉妹は秀吉に助命された。お市三十七歳前後の最期。
賤ヶ岳七本槍——1583年、二十二歳の正則が名を上げた日
1583年4月21日、賤ヶ岳。若き福島正則は加藤清正・脇坂安治ら七人と共に一番槍の功名を挙げ、秀吉子飼いの武将としての地位を確立した。『七本槍』の誕生を辿る。
関ヶ原の東軍先鋒——正則はなぜ豊臣恩顧でありながら家康に付いたか
1600年10月21日、関ヶ原。豊臣恩顧の武将・福島正則は徳川家康率いる東軍の先鋒として、豊臣家の重臣・石田三成に真っ先に攻めかかった。この構造の中に、豊臣政権の終焉が既に組み込まれていた。
広島城改易——1619年、豊臣恩顧の最大大名はなぜ潰されたか
1619年6月、幕府は福島正則を広島四十九万石から信濃高井野四万五千石へ改易した。理由は広島城の無断修築。しかし本質は、大坂の陣後の平和期における豊臣恩顧の大名淘汰だった。
泗川の戦い——1598年、七千の薩摩兵が明軍数万を撃退した日
1598年10月1日、朝鮮南部・泗川。島津義弘率いる薩摩兵約七千が、明・朝鮮連合軍数万の攻撃を受けた。半日の戦闘の後、連合軍は数千の死者を出して撤退。朝鮮の役全体の中でも最大級の勝利を辿る。
『捨て奸』——1600年関ヶ原、義弘はいかに敵中を突破したか
1600年10月21日午後、関ヶ原。西軍の敗北が決定的となった時、島津義弘は少数の兵で敵中の中央突破を選んだ。後衛が身を挺して時間を稼ぐ『捨て奸』戦法で薩摩帰還を果たした稀有な撤退戦を辿る。
関ヶ原の後、なぜ島津家だけ減封を免れたか
1600年関ヶ原後、西軍側の大名は次々と改易・減封された。しかし島津家七十七万石は唯一減封を免れた。徳川家康との二年半の交渉の中で、義弘の中央突破が果たした役割を検証する。
花倉の乱——1536年、僧侶から戦国大名へ転じた家督相続
1536年、今川氏輝の急死により今川家に家督争いが起きた。仏門にあった栴岳承芳は異母兄・玄広恵探を破り、還俗して今川義元と名乗った。禅僧から東海の大名への転身である。
甲相駿三国同盟——1554年、義元が築いた東海の勢力均衡
1554年、今川義元は武田信玄・北条氏康と甲相駿三国同盟を結んだ。三家の婚姻による相互不可侵は、義元に背後の憂いなく西方の三河・尾張へ進出する余裕を与えた。東海の覇権の完成である。
桶狭間——1560年、東海の覇者が尾張の田野に散った日
1560年5月19日、大軍を率いて尾張へ侵攻した今川義元は、桶狭間で織田信長の奇襲を受け討死した。享年四十二。東海の覇者の突然の死は、信長の飛躍と家康の独立を招き、戦国の勢力図を一変させた。
槍の又左——傾奇者が信長に許された日
若き前田利家は『槍の又左』と呼ばれた傾奇者だった。信長の寵臣を斬って出奔し、桶狭間・森部の戦場に無断で加わって首級を挙げ、ようやく帰参を許された。命がけの武功で拾った、二度目の奉公だった。
賤ヶ岳の退き陣——1583年、利家は旧主か盟友かを選んだ
1583年、賤ヶ岳。前田利家は柴田勝家方として布陣しながら、戦の最中に兵を退いた。この離脱が勝家の敗北を決定づけた。長年仕えた勝家か、旧知の秀吉か。利家は生涯で最も重い選択を、戦場のただ中で下した。
加賀百万石の重し——1599年、利家の死が均衡を崩した
1599年、前田利家は病の床で豊臣秀頼の後見を託されて世を去った。享年六十二。家康の専横を抑えうる唯一の重鎮だった利家の死は、その均衡を崩した。彼の死の翌日、大乱への歯車が回り始める。
美濃の国盗り——下剋上、梟雄が一国の主となった
戦国の世、斎藤道三は主家を次々と乗り越えて美濃一国を奪い取り、『美濃のマムシ』と恐れられた。実力が血筋を覆す下剋上の時代を、道三ほど鮮烈に体現した者はいない。
正徳寺の会見——1553年、道三は『うつけ』の非凡を見抜いた
1553年、斎藤道三は娘婿・織田信長と初めて対面した。世に『尾張のうつけ』と嘲られた若者を、道三はひと目で天下の器と見抜く。舅の眼力が、後の天下人を歴史の表舞台へと押し出した。
長良川——1556年、梟雄は実の子に討たれた
1556年、斎藤道三は家督を譲った実子・義龍と長良川で戦い、討死した。国を奪った下剋上の梟雄が、我が子の下剋上に斃れる。父子相剋の血が、道三の生涯を閉じた。
姫若子の初陣——1560年、侮られた青年が牙を剥いた
色白で物静かな長宗我部元親は『姫若子』と侮られていた。だが1560年、二十二歳の初陣で自ら槍を振るって武勇を示し、周囲の侮りを一日で覆した。四国の覇者へ歩み出す青年の、遅すぎた開花だった。
四国統一——1585年、一領具足が築いた夢とその終わり
長宗我部元親は半農半兵の『一領具足』を率い、土佐から四国の大半を制した。だが統一の目前、天下人・秀吉の大軍が海を渡ってくる。一代で築いた四国の夢は、中央の力の前に土佐一国へと縮められた。
戸次川——1586年、元親は愛息を失って変わり果てた
1586年、九州の戸次川で、長宗我部元親は嫡男・信親を島津軍との戦いで失った。二十二歳の愛息の死は、四国の英雄を猜疑の人へと変えた。後継をめぐる家中の乱れは、長宗我部家滅亡の遠因となる。
応仁の乱——1467年、我が子を将軍にせんとする母の執念が京を焼いた
実子・義尚を将軍にしたい日野富子と、既に後継と定められた義視。この足利将軍家の世継ぎ争いが、諸大名の権力闘争に火を付けた。十一年に及ぶ応仁の乱で、京都は焦土と化した。
悪女か、救い手か——富子が蓄えた富の実像
日野富子は関所や米、金貸しで莫大な富を蓄え、後世『守銭奴の悪女』と罵られた。だがその富は、戦乱で破綻した幕府と朝廷を支える財源でもあった。悪女の汚名の裏の、もう一つの顔。
義尚の死——1489年、母が将軍にした我が子は陣中に果てた
母・富子が執念で将軍位につけた足利義尚は、近江への出陣中に二十五歳で病没した。我が子のために悪女の汚名すら厭わなかった富子に残されたのは、先立たれた母の哀しみだけだった。
三度の落城——淀殿は父を、母を、戦火に奪われた
浅井長政とお市の娘・茶々は、四歳で父の小谷城を、十五歳で母の北ノ庄城を、戦火の中に失った。二度の落城で肉親を奪われた少女は、やがて三度目の落城で自らも果てる。喪失に貫かれた生涯の始まりだった。
秀頼の母——1593年、淀殿は豊臣の世継ぎを産んだ
父母の仇である秀吉の側室となった茶々は、1593年に秀頼を産んだ。天下人が待ち望んだ世継ぎの生母として、淀殿は大坂城で並ぶ者なき地位を得る。だがその我が子こそ、豊臣の運命を背負う定めだった。
大坂落城——1615年、淀殿は我が子と炎に消えた
1615年夏、徳川の大軍が大坂城を包囲した。かつて父と母を落城に失った淀殿は、今度は我が子・秀頼と共に炎の中にいた。豊臣家の滅亡と、三度目の落城。喪失に始まった生涯は、喪失に閉じた。