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秀吉の側室として——成田家保護と交換された甲斐姫
1590年、忍城落城後、甲斐姫は秀吉の側室として召し上げられた。父・氏長ら成田家の助命と引き換えの側室入りの経緯を辿る。
甲斐姫豊臣秀吉側室
1590年7月、小田原征伐が終わり忍城も開城した後、豊臣秀吉は成田家の処遇を決定する立場にあった。北条氏に与した成田家は、通常であれば改易・処刑の対象となる。しかしこの時、秀吉は成田氏長の助命を認めた。
条件として、成田氏長の長女・甲斐姫が秀吉の側室として召し上げられた。
側室入りの意味
戦国末期の女性の側室入りは、実家保護のための政治的取引の要素を含んでいた。甲斐姫の側室入りにより、成田家は下野国烏山二万石として存続することになった。豊臣秀吉の側室は複数おり、甲斐姫は「関東の姫」として遇された。
秀吉との年齢差
1590年時点で秀吉は五十四歳、甲斐姫は二十歳前後。三十歳以上の年齢差だった。当時の武家の側室関係としては通常の範疇に収まる。秀吉には正室・北政所(ねね)、側室・淀殿など複数の女性がいた。
甲斐姫はその中の一人として遇された。
側室としての日々
甲斐姫の秀吉側室としての日々についての一次史料は乏しい。太閤記など江戸期成立の史料に断片的な言及があるだけである。1593年に秀頼が生まれた後、甲斐姫が秀頼の後見役として仕えたとする記述もあるが、これも江戸期の物語化の要素を含む。
甲斐姫の側室入りは、戦国末期における女性の政治的機能を象徴する事例である。父の家門保護と自らの人生を交換した若い女性の物語は、江戸期以降の物語化を経て、現代まで語り継がれている。
ただし史実としての甲斐姫の生涯は、断片的な記録にしか残っていない。
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
太閤記
江戸期編纂
秀吉の側室関係を伝える主要典拠
- 学術文献
戦国の女性たち
小和田哲男 / 新人物往来社
戦国期の女性の側室入りの政治的意味を検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート
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