資料No. SA-0002
侍アーカイブ
豊臣秀吉
Toyotomi Hideyoshi
関白・天下人

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 豊臣秀吉 |
|---|---|
| 英名 | Toyotomi Hideyoshi |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1537–1598 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 16世紀 |
| 家・役職 | 大名 |
| 肩書 | 関白・天下人 |
第二章 — 経歴
1537年、尾張の貧しい農家に生まれた秀吉は、信長に仕え、知略と人懐こさで異例の出世を遂げた、日本史上唯一、農民出身で実質的な国家最高権力に達した人物である。本能寺の変ののち中国大返しで畿内に駆け戻り、わずか十三日で山崎の戦いに勝利、主君の仇を討った。
賤ヶ岳(1583)、小田原征伐(1590)を経て天下統一を達成、関白に任じられた。太閤検地で全国の土地を再編し、刀狩令で農民を武装解除して身分制度を固定化。1592年・1597年の朝鮮出兵は失敗に終わり、国力を疲弊させた末、1598年に伏見城で没した。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス”
第五章 — 逸話
[A]刀狩令
1588年、大仏建立を名目に農民から武器を没収。自ら農民出身でありながら身分制度を固定化し、その後数百年の日本社会の枠組みを定めた。
第六章 — 影響と遺産
信長が始めた天下統一を完成させ、太閤検地と身分固定政策で近世日本社会の骨格を築いた。一方で破滅的な朝鮮出兵は東アジア国際秩序を一変させた。
第七章 — 主な功績
- [01]山崎の戦い(1582)
- [02]太閤検地
- [03]刀狩令(1588)
- [04]小田原征伐(1590)
- [05]文禄・慶長の役(1592, 1597)
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
豊鑑
竹中重門
秀吉に近侍した竹中半兵衛の子による記録
- 学術文献
太閤記
小瀬甫庵
江戸初期成立、後世の秀吉像形成に大きな影響
- 公的所蔵
- 学術文献
図説 豊臣秀吉
柴裕之 / 戎光祥出版
オールカラーの図説伝記、豊富な図版で秀吉の生涯を辿る
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第十章 — 関連レポート
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本能寺の変——なぜ明智光秀は信長を討ったのか
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