1185–1333
鎌倉
鎌倉幕府(1185-1333)——日本初の武家政権、元寇、北条氏の台頭。
収録人物 3 名
この時代の人物
この時代の記事
神風——なぜ北条時宗は元寇を撃退した武士たちに報酬を払えなかったのか
1274年と1281年、北条時宗は前近代世界最大の海上侵攻軍二度から日本を防衛した。防備は機能した。台風が来た。日本は生き延びた。それでも幕府は破綻した。勝った武士たちに与える戦利品がなかったからである。
宝治合戦——時頼はいかに三浦一族を滅ぼしたか
1247年6月5日、鎌倉。有力御家人・三浦泰村の一族は、時頼の急襲を受けて法華堂に立て籠もり、五百人が自刃した。二十一歳の若き執権が北条氏の権力集中を完成させた一日を辿る。
建長寺開山——時頼が鎌倉に植えた禅
1253年、時頼は鎌倉に日本初の本格的禅寺・建長寺を開いた。宋から招かれた蘭渓道隆を開山とし、以後の日本禅宗の中心地となる寺の始まりを辿る。
鉢の木——時頼廻国伝説はどう生まれたか
室町謡曲『鉢の木』は、旅僧姿の時頼が上野国佐野で佐野常世に一夜の宿を借り、常世が家宝の鉢を薪として焚いたと伝える。史実と伝説の関係、そして『民を見る為政者』の理想像がなぜ時頼に投影されたのかを辿る。
執権継承——1205年、父を追放して鎌倉の実権を継いだ北条義時
1205年、牧氏事件で父・時政を失脚させた北条義時は、姉・政子と共に鎌倉幕府の実権を継いだ。父を追放して権力を握るという苛烈な選択が、北条執権政治の第二段階を開いた。
和田合戦——1213年、義時が鎌倉に権力を集中させた戦い
1213年、北条義時は有力御家人・和田義盛を挑発して挙兵に追い込み、これを滅ぼした。侍所別当の地位を奪って政所と侍所の両権を握った義時は、鎌倉幕府の実権を北条氏に集中させた。
承久の乱——1221年、義時が朝廷を実力で下した日
1221年、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発した。義時は姉・政子の檄のもと大軍を京へ送り、朝廷軍を破った。武家が朝廷を実力で下したこの戦いは、日本の権力構造を根本から転換させた。


