1100–1185
源平
平安末期と源平合戦——武士が貴族から国を奪い取った最初の時代。
収録人物 10 名
この時代の人物

SA-0028 / ca. 1157
巴御前
歴史家が存否を判定できぬ源平合戦の女武者

SA-0052 / 1118
平清盛
武家として初の太政大臣となり、平家の栄華を築いた武家政権の先駆者

SA-0070 / 1138
北条時政
頼朝の岳父として鎌倉幕府創設を支え、初代執権となった北条家の始祖

SA-0023 / 1147
源頼朝
六世紀半続く武家政権を制度として築いた初代将軍

SA-0053 / 1154
木曾義仲
倶利伽羅峠で平家を破り、いち早く上洛した「旭将軍」

SA-0015 / 1155?
武蔵坊弁慶
「立ち往生」の語源、日本人の忠義の原型となった僧兵

SA-0024 / 1157
北条政子
未亡人として鎌倉幕府の最初の真の支配者となった尼将軍

SA-0051 / 1159
源義経
壇ノ浦で平家を滅ぼし、兄・頼朝に討たれた悲劇の武将

SA-0077 / 1165?
静御前
源義経に愛された都一の白拍子、鶴岡八幡宮で頼朝の前に義経を慕って舞った悲劇の女性

SA-0016 / 1294
楠木正成
岩と謀計で鎌倉幕府軍を釘付けにした智将
この時代の記事
弁慶の立ち往生——日本の忠義神話の原点
1189年、奥州の小さな橋の上で、ひとりの僧兵が主君の最期の退却を守って戦った。彼は立ったまま死んだ、その死の像はその後八世紀にわたって、すべての日本の忠誠物語の鋳型となった。
千早城——三百で十万を釘付けにした男
1333年春、楠木正成は山岳の小城を三百対十万の戦力差で守り抜いた。三か月以上の籠城が鎌倉幕府の財政を破綻させ、各地の反乱を引き起こし、百四十八年続いた北条政権を倒した。
なぜ鎌倉だったのか——頼朝が「永続する武家政権」を発明した
1192年に源頼朝が将軍の称号を取った時、彼は国家権力を持った最初の武士ではなかった。彼が初めてだったのは、その職を恒常的なものにしたことである。1180年から1199年までの彼の選択が、その後676年の日本の運用基盤を定めた。
尼将軍——北条政子が公式に統治を許されぬまま国を運営した二十六年
1199年から1225年まで、北条政子は鎌倉幕府を実質的に運営した。最初は息子たちを通じて、後には自身の名で「尼将軍」として。彼女は日本武家史における女性政治権力の創始的人物である。
二人の天皇——足利尊氏が日本を六十年分裂させた決定
1336年、自身の幕府を正統化するため、足利尊氏は京都に対立天皇を擁立した。元の天皇は吉野に逃げた。日本はその後五十六年間、対立する二つの皇統を抱えた。その分裂の政治的構造が、戦国に至る国の形を決めた。
存在したかも分からぬ女——巴御前と女武者の伝統
巴御前は『平家物語』に源平合戦最大の女武者として登場する。当時の記録には現れない。日本中世史学が最終的に存否を判定できぬ問いだが、彼女が築いた伝統は紛れもなく実在する。
鞍馬から奥州へ——牛若丸はいかに義経となったか
父・義朝の敗死から二十年。京都の寺に預けられた牛若丸は、十六歳で鞍馬を出て奥州の藤原秀衡を頼った。頼朝の挙兵で歴史の表舞台に躍り出るまでの、記録の少ない少年時代を辿る。
鵯越の逆落とし——一ノ谷の朝、義経は何をしたか
1184年3月、摂津国一ノ谷。平家陣の背後、鉄拐山の断崖を七十騎で駆け下りたとされる『鵯越の逆落とし』は、日本軍記文学で最も有名な戦場面の一つ。しかし同時代史料は簡潔にしか記さない。伝承と史料の間で、何が起きたのかを問う。
衣川の朝——なぜ義経は兄・頼朝に討たれたか
1185年、壇ノ浦で平家を滅ぼした義経が、四年後には奥州の館で自害している。壇ノ浦から衣川までの四年で何が起きたのか。兄弟の対立の政治的構造と、義経の最期を辿る。
熊野詣の帰路——平治の乱と清盛の一夜
1160年正月、京都で藤原信頼と源義朝が挙兵した時、平清盛は熊野詣の途中にあった。京都に本拠を残した清盛の四十二歳と、源義朝の三十七歳。この一戦で日本の政治史は決まる。
武家の太政大臣——1167年、清盛は何を成し遂げたか
1167年、平清盛は太政大臣に就任した。摂関家か皇族に限られてきた最高官職への武家の任官は、日本の政治構造の前例なき転換だった。就任の意味と、平家一門の栄華の実相を読む。
以仁王の令旨——1180年、平家の栄華はなぜ崩れたか
1180年5月、後白河法皇の子・以仁王が発した令旨は、諸国の源氏に平家追討を命じるものだった。全国的な反平家の挙兵、南都焼き討ち、福原遷都の失敗、そして清盛の熱病死。一年半で世界が変わる。
木曾の山中から——義仲は誰の子として育ったか
1155年、二歳の駒王丸は父を失った。信濃国木曾谷で育った少年が、二十六歳で以仁王の令旨に応じて挙兵する。平家追討戦の最初の実戦的勝者となる男の、前史を辿る。
倶利伽羅峠——1183年5月、平維盛はなぜ壊滅したか
1183年5月11日夜、越中と加賀の国境の倶利伽羅峠。平維盛率いる平家の追討軍七万が、義仲軍の夜襲を受けて壊滅した。『火牛の計』の伝承と史実。平家没落の決定的契機を辿る。
宇治川、そして粟津——義仲はなぜ入京から半年で朝敵となったか
1183年7月、義仲は京都に入り征夷大将軍に任じられた。だが半年後には朝敵として鎌倉軍に討たれる。都で何が起きたのか。上洛から粟津の死までの、半年の失政の記録。
武士誕生の起点——将門は『武士』の始祖と言えるか
現代の歴史研究では、日本の『武士』という階級の誕生は10-11世紀に遡るとされる。その最初の大規模事例として、しばしば将門の名が挙げられる。武士の起源としての将門の位置付けを検討する。
四条畷の後——1348年、兄の死が正儀に家督を回した
1348年正月、河内四条畷。楠木正行は北朝方・高師直の大軍と正面から激突し戦死した。父・正成に続いて兄も戦死し、楠木家の家督は三男・正儀に回った。以後四十年の生涯の始まり。
監視役から岳父へ——時政と頼朝の二十年
1160年、伊豆流罪となった源頼朝の監視役を担った北条時政は、二十年後には頼朝の岳父となり鎌倉幕府創設の中枢にいた。娘・政子の秘密結婚が動かした一族の運命を辿る。
1203年、時政はいかに執権政治を作ったか
1203年、時政は二代将軍・頼家(自らの孫)を排除し、三代将軍・実朝を擁立、政所別当に就任した。以後八百年続く『執権政治』——将軍を戴きながら執権が実権を握る二重構造の起源。
牧氏事件——1205年、時政は権力の頂点から転落した
1205年閏7月、時政は後妻・牧の方と共に平賀朝雅を将軍に擁立する陰謀を企てた。しかし娘・政子と子・義時の反撃により失敗、失脚して伊豆に隠退した。権力の頂点からの急転落。
執権継承——1205年、父を追放して鎌倉の実権を継いだ北条義時
1205年、牧氏事件で父・時政を失脚させた北条義時は、姉・政子と共に鎌倉幕府の実権を継いだ。父を追放して権力を握るという苛烈な選択が、北条執権政治の第二段階を開いた。
承久の乱——1221年、義時が朝廷を実力で下した日
1221年、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発した。義時は姉・政子の檄のもと大軍を京へ送り、朝廷軍を破った。武家が朝廷を実力で下したこの戦いは、日本の権力構造を根本から転換させた。
稲村ヶ崎——1333年、義貞が海に太刀を投じて鎌倉を落とした
1333年5月、新田義貞は鎌倉の外れ稲村ヶ崎で海へ黄金の太刀を投じ、潮の引いた干潟を駆けて鎌倉へ攻め入った。百四十年続いた鎌倉幕府が、一人の不遇な御家人の挙兵から半月あまりで滅んだ。
湊川の敗走——1336年、義貞は盟友・正成を救えなかった
1336年5月、摂津湊川。九州から巻き返した足利尊氏の大軍を前に、新田義貞と楠木正成は敗れた。正成は討死し、義貞は敗走して生き延びた。共に建武政権を支えた二人の、明暗を分けた一日だった。
吉野の雪——1186年、静は義経と生き別れた
1185年、都一の白拍子・静御前は、追われる身となった源義経に従って都を落ちた。翌年正月、女人禁制の吉野山で二人は別れる。雪の峰に消えていく義経の背を、静はただ見送るしかなかった。これが今生の別れとなった。
鶴岡の舞——1186年、静は頼朝の前で義経を慕って舞った
1186年、鎌倉。捕らわれた静御前は、頼朝と政子の求めで鶴岡八幡宮に舞を奉納した。だが静が舞い歌ったのは、頼朝が追う義経を慕う歌だった。頼朝は激怒する。それを、義経を想う一人の女として、政子がかばった。
由比ヶ浜——1186年、静は生まれた我が子を奪われた
鎌倉で静御前は義経の子を産んだ。生まれたのが男児なら殺すと、既に定められていた。嬰児は由比ヶ浜の波間に沈められる。母から引き離された我が子の死。静はその後、傷心のまま鎌倉を去り、以後の消息は伝説の中に消えた。