資料No. SA-0016
侍アーカイブ
楠木正成
Kusunoki Masashige
元弘の乱の英雄

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 楠木正成 |
|---|---|
| 英名 | Kusunoki Masashige |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1294–1336 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 12世紀 |
| 家・役職 | 軍師 |
| 肩書 | 元弘の乱の英雄 |
第二章 — 経歴
1294年頃、河内国に生まれた。出自は不詳である。後醍醐天皇の倒幕運動・元弘の乱(1331年)に呼応して挙兵した。三百の手勢で赤坂城を守り、翌年からは金剛山系の岩稜に築いた千早城に拠った。約十万の鎌倉幕府軍を三か月以上釘付けにし、岩や落木、火矢、藁人形に鎧を着せた偽兵まで動員した。
長期化により幕府の動員力は枯渇し、1333年六月に北条政権は崩壊する。建武の新政が始まったが、三年後に足利尊氏が後醍醐天皇に背いて挙兵すると、正成は持久戦を進言した。しかし天皇は摂津での野戦を命じた。正成は湊川で一日中戦い続け、力尽きて弟・正季と刺し違えて果てた。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“七生報国”
第五章 — 逸話
[A]千早城の岩雪崩
千早城で正成は、攻め手の上に倒れ落ちる仕掛けの段階柵、鎧を着せた藁人形、転がし落とすための石の蓄積を山腹に張り巡らせた。鎌倉軍は花崗岩の崖をよじ登るたびに崩れ落ち、波状の死傷者を出した。三か月攻めても城は落ちず、幕府の動員力は底を突いた。
各地の領主が反乱に加わり、北条政権は崩壊した。
第六章 — 影響と遺産
正成は日本文化における皇室への忠義の最高の体現者となった。最期に弟と誓ったとされる「七生報国」(七度生まれ変わっても国賊を討つ)の語は、六世紀後の特攻隊員の遺書にも刻まれた。皇居前広場の楠木正成の騎馬像は、日本で最も著名な武士の像のひとつである。
第七章 — 主な功績
- [01]赤坂城の防衛(1332)
- [02]千早城の戦い(1333)
- [03]『太平記』の主人公
- [04]皇居前広場の騎馬像
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
太平記
南北朝期成立、楠木正成の事績を伝える主要軍記
- 学術文献
楠木正成
森茂暁 / KADOKAWA
南北朝期研究の第一人者による評伝
- 公的所蔵
- 学術文献
楠木正成(上)新装版
北方謙三 / 中公文庫
南北朝の激動を背景に楠木正成を描く長編歴史小説
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
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千早城——三百で十万を釘付けにした男
1333年春、楠木正成は山岳の小城を三百対十万の戦力差で守り抜いた。三か月以上の籠城が鎌倉幕府の財政を破綻させ、各地の反乱を引き起こし、百四十八年続いた北条政権を倒した。
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二人の天皇——足利尊氏が日本を六十年分裂させた決定
1336年、自身の幕府を正統化するため、足利尊氏は京都に対立天皇を擁立した。元の天皇は吉野に逃げた。日本はその後五十六年間、対立する二つの皇統を抱えた。その分裂の政治的構造が、戦国に至る国の形を決めた。
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四条畷の後——1348年、兄の死が正儀に家督を回した
1348年正月、河内四条畷。楠木正行は北朝方・高師直の大軍と正面から激突し戦死した。父・正成に続いて兄も戦死し、楠木家の家督は三男・正儀に回った。以後四十年の生涯の始まり。
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湊川の敗走——1336年、義貞は盟友・正成を救えなかった
1336年5月、摂津湊川。九州から巻き返した足利尊氏の大軍を前に、新田義貞と楠木正成は敗れた。正成は討死し、義貞は敗走して生き延びた。共に建武政権を支えた二人の、明暗を分けた一日だった。
