1336–1467
南北朝
南北朝時代(1336-1467)——二つの皇統が日本を分かち、武士の地方政権が確立した時代。
収録人物 4 名
この時代の人物
この時代の記事
二人の天皇——足利尊氏が日本を六十年分裂させた決定
1336年、自身の幕府を正統化するため、足利尊氏は京都に対立天皇を擁立した。元の天皇は吉野に逃げた。日本はその後五十六年間、対立する二つの皇統を抱えた。その分裂の政治的構造が、戦国に至る国の形を決めた。
明徳の和約——義満はいかに五十年の分裂を終わらせたか
1392年閏10月5日、京都。南朝の後亀山天皇が三種の神器を後小松天皇に譲り、五十年以上続いた南北朝の分裂は終わった。義満三十五歳、権力の絶頂期の外交決着を辿る。
金閣——義満が北山に建てた武家権力の到達点
1397年、義満は京都北山に「北山第」と呼ばれる巨大な邸宅の造営を開始した。中核の三層楼閣(後の金閣)は、公家・武家・禅宗の三層を積み上げた建築だった。義満の権力構想を建築が語る。
『日本国王源道義』——義満はなぜ明皇帝の冊封を受けたか
1402年、明の永楽帝は足利義満に「日本国王源道義」の称号を授けた。天皇を戴く日本で、武家将軍が中国皇帝から国王として認められた前例なき事件の背景と論争を辿る。
四条畷の後——1348年、兄の死が正儀に家督を回した
1348年正月、河内四条畷。楠木正行は北朝方・高師直の大軍と正面から激突し戦死した。父・正成に続いて兄も戦死し、楠木家の家督は三男・正儀に回った。以後四十年の生涯の始まり。
1369年の変節——楠木の家督が北朝に降伏した理由
1369年、南朝方の中核武将・楠木正儀が北朝・室町幕府に降伏した。南朝内部からは『裏切者』と激しく糾弾された選択の背景にあったのは、和平による戦乱終結の理想だった。
1381年の南朝復帰——正儀は最後の十年を父の遺志に賭けた
1369年に北朝に降伏した楠木正儀は、1381年に再び南朝に復帰した。二度目の帰属変更は、南北両朝の直接交渉の道が開けた瞬間に起きた。1392年の南北朝合体への十一年前の伏線。
稲村ヶ崎——1333年、義貞が海に太刀を投じて鎌倉を落とした
1333年5月、新田義貞は鎌倉の外れ稲村ヶ崎で海へ黄金の太刀を投じ、潮の引いた干潟を駆けて鎌倉へ攻め入った。百四十年続いた鎌倉幕府が、一人の不遇な御家人の挙兵から半月あまりで滅んだ。
湊川の敗走——1336年、義貞は盟友・正成を救えなかった
1336年5月、摂津湊川。九州から巻き返した足利尊氏の大軍を前に、新田義貞と楠木正成は敗れた。正成は討死し、義貞は敗走して生き延びた。共に建武政権を支えた二人の、明暗を分けた一日だった。
藤島——1338年、泥田の流れ矢が南朝の柱を折った
1338年閏7月、越前藤島。新田義貞はわずかな手勢で味方の救援に向かった先で足利方の大軍と遭遇し、泥田に馬を取られたところを流れ矢に射抜かれて戦死した。享年三十八。南朝はこの日、最大の軍事的支柱を失った。



