1603–1853
江戸
徳川の太平(1603-1853)——幕府による二百五十年の安定、町人文化の隆盛、鎖国の時代。
収録人物 12 名
この時代の人物

SA-0003 / 1543
徳川家康
260年続く徳川幕府を築いた忍耐の天下人

SA-0034 / 1559
直江兼続
「愛」の前立てを掲げた上杉家の智将

SA-0041 / 1560?
後藤又兵衛
大坂の陣で幸村と並んで散った浪人英雄

SA-0020 / 1566
真田信之
東軍に付いた兄として弟・幸村より四十三年長生きし、明治まで続く家を建てた

SA-0004 / 1567
伊達政宗
仙台を築いた独眼竜

SA-0009 / 1567
真田信繁(幸村)
大坂の陣で散った戦国最後の英雄、「日本一の兵」

SA-0014 / 1567
立花宗茂
「西国無双」、すべてを失い、すべてを取り戻した大名

SA-0044 / 1571
柳生宗矩
徳川剣を国家の道に高めた柳生新陰流の継承者

SA-0040 / 1582
小早川秀秋
松尾山の決断で戦国を終わらせた若き裏切者

SA-0007 / 1584
宮本武蔵
『五輪書』を遺した不敗の剣豪

SA-0032 / 1659
大石内蔵助
赤穂浪士四十七士を率いた忠臣の代名詞

SA-0019 / 1751
上杉鷹山
破綻寸前の藩を三十年の倹約改革で救った若き名君
この時代の記事
関ヶ原——なぜ徳川は一日で日本を手に入れたのか
1600年10月21日、美濃の盆地に約八万ずつの軍勢が霧の中で対峙した。日没までに、その後250年の日本を決めた戦いは終わっていた。
『五輪書』——宮本武蔵が遺した剣の哲学
1645年、61歳で死を目前にした不敗の剣豪が、霊巌洞の岩窟で書き上げた書物。半分は技法書、半分は瞑想、そして全体としてどこにもないものだった。
大坂・天王寺口の最後の突撃——真田信繁の最期
1615年5月のある午後、三千の赤備え騎馬が日本最大の軍勢に突撃し、家康をあと一歩で追い詰めた。すでに伝説だった男が、その日に成したことは、以後すべての「敗者の英雄」の原型となった。
服部半蔵と忍者の真実
歴史上最も有名な忍者は、おそらく忍者ではなかった。彼は伊賀という村出身の特殊兵を率いる、ごく普通の武士の指揮官であり、その事実は伝説の読み方を根本から変える。
関ヶ原を裏切った男たち——その後の運命
西軍の主要武将四人が、その日のうちに東軍へ寝返った。その三人は十年以内に没落した。残る一人は二百六十年後、徳川を倒す側の祖となった。
三つの『武士道』——『五輪書』『葉隠』『武士道初心集』
「武士道」という単一の書物は存在しない。三冊の書物が三つの時代に三人の異なる武士によって書かれており、ほとんどすべての点で互いに矛盾している。
鎌倉vs江戸——二つの武家政権の構造と寿命
日本には三つの幕府があった。重要なのは二つである。表面的には似ている(武士による世襲の軍事政権)が、その構造の違いが寿命を、終わり方を、そして大名制度から明治維新までを決めた。
なぜ伊達政宗は侍をローマへ送ったのか——慶長遣欧使節1613
鎖国の四十年前、独眼竜は180人の使節団を太平洋越しにメキシコ・ローマへと送り出した。使命は失敗した。だがその試み自体が、江戸初期史で最も奇妙な物語である。
十二年の帰還——関ヶ原で改易された大名で旧領復帰を果たした唯一の男
立花宗茂は関ヶ原で全てを失った、一族が代々保持してきた柳川13万2千石。十二年後、徳川は静かにそれを返した。西軍諸将でこの処遇を受けたのは、宗茂ただ一人である。
為せば成る——十七歳の藩主が破綻寸前の藩を救った話
1767年、上杉鷹山が米沢藩を継いだ時、財政は同時代の人間が幕府への返上を勧めるほど酷かった。三十年後、藩は再生していた。手法は今も日本のリーダーシップ講座で教えられる。
伝説より長く生きた兄——なぜ真田信之は九十二まで生きたのか
真田信繁(幸村)は1615年、大坂で英雄として死んだ。兄・信之は関ヶ原で徳川側に付いた。弟より四十三年長く生き、明治まで続く家を築いた。この対比は武士の忠誠が実際に何を要求するかを語る。
二十三か月の沈黙——大石内蔵助はなぜ討ち入りまで一年九か月待ったのか
浅野内匠頭の切腹から吉良邸討ち入りまで、大石内蔵助は六百日以上を待った。山科で遊興にふけって「昼行灯」と呼ばれた裏で、彼は何を準備していたのか。
松之大廊下——浅野内匠頭はなぜ刀を抜いたのか
1701年4月21日、江戸城本丸の松之大廊下で、播磨赤穂藩主・浅野内匠頭が高家筆頭・吉良上野介に背後から斬りかかった。動機は今も謎である。
復讐から忠義へ——赤穂事件はいかに国民神話になったか
1703年の赤穂事件は実際には四十七人の浪人による私的な復讐事件だった。それが「忠と義の物語」として日本の精神を形作る神話に育つまで、二百五十年の上演史があった。
直江状——一通の手紙が関ヶ原を呼んだ
1600年4月、上杉景勝の重臣・直江兼続は徳川家康に十六か条の挑戦状を送り付けた。返書は数か月以内に七十二万石の同盟軍を関ヶ原に呼び寄せ、日本史最大の合戦の引き金を引いた。
百二十万石から三十万石へ——直江兼続が米沢を救った方法
関ヶ原の敗戦で上杉家は会津百二十万石から米沢三十万石へ四分の一に減封された。重臣を半分に解雇するのが当時の標準解だった。直江兼続はそれを拒んだ。
「愛」の前立て——なぜ侍は額に愛と書いたのか
直江兼続の兜の前立ては漢字一文字、愛。戦国期の侍が額に愛と掲げることの意味は、現代人が直感する恋愛の愛ではない。
白頭巾の最期——大谷吉継はいかに関ヶ原で散ったか
1600年9月15日午後、関ヶ原本戦の三時間目、松尾山から下りた小早川軍が大谷隊の脇腹を直撃した。続く脇坂・小川・赤座・朽木の四隊同時離反で陣形は崩壊、吉継は家臣・湯浅五助に介錯を命じて自害した。
二度の養子——小早川秀秋はいかに名前を変えたか
1582年に近江木下家に生まれた一人の男児は、三歳で豊臣秀吉の養子、十二歳で小早川家の養子と、十年で二度名前と一族を変えた。関ヶ原の裏切り判断の遠因はこの養子の連鎖にあった。
松尾山の二時間——小早川秀秋はなぜ正午過ぎに動いたのか
1600年9月15日朝、関ヶ原南方の松尾山に布陣した小早川秀秋一万五千は、午前中ずっと動かなかった。家康は鉄砲を撃ち込んで督促し、午後一時頃ついに秀秋は西軍を裏切り山を降りた。二時間の沈黙が戦国の終結を決定づけた。
二十一歳——小早川秀秋の早世が伝説になった理由
1602年10月、小早川秀秋は岡山で急死した。享年二十一、関ヶ原から二年後の死だった。後世「裏切りの罪悪感が病として現れた」と語られたが、近年の医学史研究は別の原因を示している。
黒田家からの退去——又兵衛はなぜ浪人になったのか
1611年、後藤又兵衛は仕えていた筑前福岡藩の黒田家を退去し、浪人となった。長政との関係悪化が直接の原因だが、武士社会の慣行を破った代償として奉公構を発令され、十年近く各地を流浪することになった。
道明寺の戦い——後藤又兵衛は幸村の前日に死んだ
1615年5月6日、大坂夏の陣の前哨戦・道明寺の戦いで後藤又兵衛は戦死した。徳川軍三万に対し、又兵衛勢二千で半日持ちこたえた末の最期。真田幸村が天王寺口で戦死する前日のことだった。
大坂浪人衆五人衆——なぜ秀頼は浪人を集めたのか
1614年の大坂冬の陣を控えた豊臣秀頼は、関ヶ原で敗れた西軍系の浪人を大坂城に大量招集した。後藤又兵衛・真田幸村・毛利勝永・明石全登・長宗我部盛親の五人を中核とする浪人衆は、十万を超える規模となった。
鹿島から世界へ——卜伝が作った廻国修行の伝統
塚原卜伝は人生の大半を鹿島神宮で過ごしたが、晩年は諸国を巡って弟子を育てた。彼が確立した廻国修行の伝統は、後の剣豪たち(上泉信綱・宮本武蔵ら)が辿るルートを作り、日本の武道修行の標準形となった。
無刀取——上泉信綱が素手で剣を奪った日
上泉信綱が大和柳生で柳生宗厳と対戦した際、最後の三度目の試合で信綱は素手で宗厳の刃を奪い取ったと伝わる。無刀取と呼ばれるこの技法は、新陰流の極意の一つとして後世に伝承された。
将軍家剣術指南——柳生新陰流はいかに国家の道となったか
1605年、柳生宗矩は二代将軍徳川秀忠の剣術指南役に就任した。父・宗厳から継いだ柳生新陰流が徳川幕府の公式剣術となった瞬間である。一流派が国家の道となる稀有な事例の背景を読む。
兵法家伝書——「人を生かす剣」はいかに書かれたか
1632年、柳生宗矩は剣の家伝書『兵法家伝書』を完成させた。剣の技を「殺人剣」と「活人剣」に区別し、究極の剣は人を生かす剣であると説いた。この思想は禅僧・沢庵宗彭との交流の中で深められた。
柳生庄と隠密ネットワーク——剣術指南役は何を見ていたか
1632年、柳生宗矩は徳川幕府の大目付に昇進した。剣術指南役としての顔の裏で、幕府の隠密情報組織の総括も担うことになった。柳生庄を拠点とした隠密ネットワークの実態は近年の研究でどう解明されているか。
無刀流——山岡鉄舟が剣と禅を統合した日
1880年、山岡鉄舟は剣と禅と書を統合した一刀正伝無刀流を開いた。塚原卜伝の無手勝流、上泉信綱の新陰流の系譜上にある「剣の最終形」として、明治の剣道思想を再構築する試みだった。
現代マンガ・アニメの中の宮本武蔵——吉川英治からバキ道まで
1935年の吉川英治『宮本武蔵』から井上雄彦『バガボンド』、板垣恵介『刃牙道』まで、現代日本の創作の中で武蔵像はどのように変容してきたか。同一の歴史人物が世代ごとに違う顔を見せる九十年の系譜を辿る。
史実の武蔵とマンガの武蔵——五つの違いから読む剣聖像
二刀流、身長、性格、佐々木小次郎との対決、吉岡一門との戦い。マンガ・アニメで描かれる武蔵と、史実に残された武蔵の間にはどんな違いがあるのか。バキ道などで武蔵に興味を持った読者のための五つの対比。
バキ道のあとに——宮本武蔵を史実から知るための入門ガイド
バキ道で武蔵に興味を持った読者のための史実入門。武蔵の生涯のハイライト、二天一流とは何か、五輪書の構造、佐々木小次郎との対決の史実、現代の武蔵研究の状況まで、最短で武蔵を理解するガイド。