資料No. SA-0014
侍アーカイブ
立花宗茂
Tachibana Muneshige
柳川藩主

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 立花宗茂 |
|---|---|
| 英名 | Tachibana Muneshige |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1567–1643 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 17世紀 |
| 家・役職 | 大名 |
| 肩書 | 柳川藩主 |
第二章 — 経歴
1567年、豊後国に大友家臣・高橋紹運の子として生まれた宗茂は、十六歳で立花家の養子となり、博多平野の要衝・立花城を継いだ。豊臣の九州平定(1587)と朝鮮出兵で頭角を現し、特に碧蹄館の戦いでは殿として豊臣軍の撤退を支えた。関ヶ原では石田三成方に付き、本戦には参加せず大津城を攻めていたが、西軍敗戦で柳川13万2千石を全て没収された。
十二年間を諸国を巡る兵法指南役・浪人として過ごし、毛利・細川・伊達からの再仕官の誘いをすべて断った。理由は「自分が戻れる領地は柳川だけだ」というものだった。1620年、ついに徳川秀忠は柳川復帰を許可。関ヶ原で改易された大名で旧領復帰を果たしたのは宗茂ただ一人である。
以後、徳川に忠勤し、大坂の陣・島原の乱でも戦った。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“忠は主によりて変ずるものに非ず”
第五章 — 逸話
[A]十二年の帰還
全所領を失った宗茂は、剣術指南と軍師として日本各地を流浪した。他家からの再仕官の誘いを彼はことごとく断った。「自分が戻れる領地は柳川だけだ」と。十二年後、徳川は静かにその主張を認めた。
第六章 — 影響と遺産
宗茂は江戸期武士道の理想(生存のために主を替えず、世の歯車が回り戻るまで待つ大名)として語り継がれた。立花家は柳川を明治維新まで保ち、龍照寺の立花家霊廟は今も武士道巡礼の名所となっている。
第七章 — 主な功績
- [01]碧蹄館の戦い(1593)
- [02]大津城攻め(1600)
- [03]柳川旧領復帰(1620)
- [04]立花家御式目
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
柳河藩政誌
柳川藩編纂
立花家・柳川藩の正史
- 学術文献
立花宗茂
中野等 / 吉川弘文館 (人物叢書)
学術的決定版
- 公的所蔵
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第十章 — 関連レポート
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