資料No. SA-0041
侍アーカイブ
後藤又兵衛
Gotō Matabei
黒田家家臣・大坂浪人衆五人衆

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 後藤又兵衛 |
|---|---|
| 英名 | Gotō Matabei |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1560?–1615 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 17世紀 |
| 家・役職 | 幕士 |
| 肩書 | 黒田家家臣・大坂浪人衆五人衆 |
第二章 — 経歴
1560年頃、播磨国に生まれる(本名は後藤基次、又兵衛は通称)。少年期から黒田官兵衛・長政父子に仕え、九州平定や朝鮮出兵で武功を挙げた。1600年の関ヶ原では黒田長政に従って東軍として戦い、戦後は筑前国一万六千石の領主となった。
しかし1606年頃から主君長政との関係が悪化、1611年に黒田家を退去し浪人となった。長政は他大名への仕官を妨害する「奉公構」を発令し、又兵衛は十年近く各地を流浪することになった。1614年の大坂の陣で豊臣秀頼に招かれて大坂城に入城、真田信繁(幸村)・毛利勝永らと共に大坂浪人衆五人衆の一人として防衛戦の中核を担った。
1615年5月6日の道明寺の戦いで奮戦の末に戦死した。幸村が天王寺口で戦死する前日のことだった。享年五十六と伝わる。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“武士は二君に仕えず、されど義は一つに非ず”
第五章 — 逸話
[A]黒田家を出る決断
又兵衛は黒田官兵衛から重く用いられたが、嫡男長政との関係が悪化した。長政が又兵衛を冷遇するようになり、1606年頃から両者の対立は深刻化した。1611年、又兵衛はついに黒田家を退去した。当時の武士社会では主家を離れることは禁忌に近く、長政は他大名への仕官を防ぐため奉公構を発令、又兵衛は十年近く各地を流浪する身となった。
第六章 — 影響と遺産
又兵衛は大坂の陣の浪人衆を代表する存在として、真田信繁(幸村)と並ぶ後世の人気を獲得した。江戸期の軍記物・歌舞伎・浄瑠璃で繰り返し主題化され、講談「後藤又兵衛物語」のシリーズは庶民の間で広く愛された。道明寺の戦いでの奮戦と戦死は、関ヶ原の敗者として復活を期した浪人たちの集合的物語として、現代までの幕末・戦国終結期研究の中核に位置する。兵庫県加古川市の播磨町には又兵衛生誕地の伝承があり、墓と碑が現存する。
第七章 — 主な功績
- [01]九州平定・朝鮮出兵参戦
- [02]関ヶ原での東軍参戦(1600)
- [03]黒田家退去(1611)
- [04]大坂冬の陣・夏の陣(1614–1615)
- [05]道明寺の戦い(1615)
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
大坂御陣覚書
大坂の陣の経過を伝える主要編纂史料、又兵衛の動向を含む
- 学術文献
関ヶ原合戦と大坂の陣
笠谷和比古 / 吉川弘文館
大坂の陣における浪人衆の役割を実証的に解明
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
SA-RPT
黒田家からの退去——又兵衛はなぜ浪人になったのか
1611年、後藤又兵衛は仕えていた筑前福岡藩の黒田家を退去し、浪人となった。長政との関係悪化が直接の原因だが、武士社会の慣行を破った代償として奉公構を発令され、十年近く各地を流浪することになった。
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道明寺の戦い——後藤又兵衛は幸村の前日に死んだ
1615年5月6日、大坂夏の陣の前哨戦・道明寺の戦いで後藤又兵衛は戦死した。徳川軍三万に対し、又兵衛勢二千で半日持ちこたえた末の最期。真田幸村が天王寺口で戦死する前日のことだった。
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大坂浪人衆五人衆——なぜ秀頼は浪人を集めたのか
1614年の大坂冬の陣を控えた豊臣秀頼は、関ヶ原で敗れた西軍系の浪人を大坂城に大量招集した。後藤又兵衛・真田幸村・毛利勝永・明石全登・長宗我部盛親の五人を中核とする浪人衆は、十万を超える規模となった。



