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道明寺の戦い——後藤又兵衛は幸村の前日に死んだ
1615年5月6日、大坂夏の陣の前哨戦・道明寺の戦いで後藤又兵衛は戦死した。徳川軍三万に対し、又兵衛勢二千で半日持ちこたえた末の最期。真田幸村が天王寺口で戦死する前日のことだった。
1615年5月6日(慶長二十年四月二十九日)朝、大坂府羽曳野の道明寺周辺で後藤又兵衛は徳川軍と交戦した。大坂方の前哨戦で、徳川軍三万に対し又兵衛勢は二千。圧倒的な戦力差の中で又兵衛は半日近く戦線を保ち、最終的に戦死した。翌5月7日に真田幸村が天王寺口で戦死する、その前日のことだった。
前夜の作戦会議
5月5日夜、大坂城内で行われた作戦会議で、大坂方は徳川軍の進撃を生駒山地と河内国境で迎撃する計画を立てた。又兵衛は河内方面の総指揮を任され、薄田兼相・明石全登らと協力して道明寺周辺で徳川軍の主力を阻止する役割を担った。前夜、又兵衛は深い霧の予想を聞いて出陣を急ぎ、早朝に道明寺周辺に到着した。しかし他の二将の到着が遅れ、又兵衛勢二千だけで徳川軍三万を迎えることになった。
半日の死守
5月6日早朝から正午過ぎまで、又兵衛は道明寺前面で徳川軍の進撃を阻止し続けた。徳川方の伊達政宗・水野勝成・松平忠輝の各隊が次々と攻撃を仕掛けたが、又兵衛勢は地形を活かして戦線を維持した。同時代の徳川方記録によれば、又兵衛の用兵は冷静で、兵力差に動じず計算された撤退と再攻撃を繰り返した。正午過ぎ、徳川軍の包囲が完成した時点で又兵衛勢は壊滅、又兵衛自身も戦死した。享年五十六と伝わる。
幸村との一日違い
翌5月7日、真田幸村が天王寺口で家康本陣に突撃を敢行し戦死した。又兵衛と幸村の戦死は一日違いで、両者は大坂浪人衆五人衆の中核的な二人として、後世「大坂二大英雄」と並び称された。又兵衛の道明寺死守と幸村の天王寺突撃は、軍事的には大坂方の敗戦の中の二つの局地的奮戦だが、文学的には戦国終結期の浪人たちの集合的物語として並べて語られる。江戸期以降の軍記物・歌舞伎・講談で繰り返し主題化された。
後世の記憶
又兵衛の道明寺戦死は、大坂の陣の浪人英雄譚の中核となった。江戸期の講談「後藤又兵衛物語」シリーズは庶民の間で広く愛され、明治以降も小説・映画・テレビドラマで繰り返し描かれた。道明寺の古戦場周辺には誉田八幡宮など関連史跡が現存し、毎年5月には地元で又兵衛偲ぶ法要が行われている。又兵衛が一万六千石の正規の家臣の地位を放棄してまで武士として立ち続けた選択は、戦国終結期における武士の生き方の極限例として現代までの研究対象となっている。
"我が首、徳川に渡すこと勿れ。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
大坂御陣覚書
大坂夏の陣・道明寺の戦いの経過を伝える主要編纂史料
- 学術文献
関ヶ原合戦と大坂の陣
笠谷和比古 / 吉川弘文館
道明寺の戦いを大坂夏の陣全体の中で実証的に位置づける
- 公的所蔵
誉田八幡宮
大阪府羽曳野市
道明寺の戦い古戦場周辺に位置、関連史跡を有する
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