資料No. SA-0011
侍アーカイブ
黒田官兵衛(孝高)
Kuroda Yoshitaka
豊臣秀吉の参謀

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 黒田官兵衛(孝高) |
|---|---|
| 英名 | Kuroda Yoshitaka |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1546–1604 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 16世紀 |
| 家・役職 | 軍師 |
| 肩書 | 豊臣秀吉の参謀 |
第二章 — 経歴
1546年、播磨国に生まれた黒田孝高(通称・官兵衛)は、戦国期屈指の戦略眼を持つ軍師であった。中国攻めで秀吉の参謀となり、1582年の備中高松城水攻めを設計、本能寺の変の瞬間に毛利を釘付けにする見事な戦局を作り上げた。本能寺の報が届いた瞬間、嘆く秀吉に「ご運の開けたる時にて候」と耳打ちした逸話は有名で、後に秀吉自身が「あれ以来、官兵衛は怖い男だと思うようになった」と述懐したと伝わる。
九州平定後に与えられた所領は中津12万石。その実力に対して明らかに低く、秀吉が彼を中央から遠ざけたかったことが透けて見える。バテレン追放令前にキリスト教徒となり(洗礼名シメオン如水)、関ヶ原では西軍の名目に従う一方、九州で独自軍を組織し東西両軍が共倒れしたら自ら天下を取ろうとした節すらある。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“戦は勝つべくして勝つもの。捨つべきを捨つるが上策なり”
第五章 — 逸話
[A]本能寺の耳打ち
備中高松で信長横死の急報を受けた秀吉が泣き伏したとき、官兵衛はそっと身を寄せ「ご運の開けたる時にて候」と告げた。秀吉は後年これを笑い話として語ったが、続けて「あれ以来、官兵衛だけは京の近くに置かぬと決めた」とも漏らした。
第六章 — 影響と遺産
官兵衛は日本の戦略家の理想像となった。葉隠は最高の侍頭脳の例として武蔵と並べて彼を挙げ、現代日本のビジネス書にも頻繁に登場する。息子・長政が黒田藩52万石(福岡藩)を立て、明治維新まで続いた。
第七章 — 主な功績
- [01]備中高松城水攻め(1582)
- [02]九州平定戦(1587)
- [03]九州独自攻略戦(1600)
- [04]息子・長政を通じた福岡城築城
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
黒田家譜
貝原益軒 (編)
黒田家の家譜・事績を体系化した正史
- 学術文献
黒田官兵衛
小和田哲男 / 平凡社新書
戦国研究の第一人者による評伝
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
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第九章 — 関連人物

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