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黒田家からの退去——又兵衛はなぜ浪人になったのか
1611年、後藤又兵衛は仕えていた筑前福岡藩の黒田家を退去し、浪人となった。長政との関係悪化が直接の原因だが、武士社会の慣行を破った代償として奉公構を発令され、十年近く各地を流浪することになった。
1611年(慶長十六年)、後藤又兵衛は仕えていた筑前福岡藩の黒田家を退去した。当時の又兵衛は黒田家の重臣で、一万六千石の知行を持つ大身。これを放棄して浪人となる選択は、武士社会の慣行から大きく外れた行動だった。背景には主君・黒田長政との長年の関係悪化があった。
官兵衛と長政の評価差
又兵衛は黒田家初代・黒田官兵衛(孝高)から重く用いられた。少年期からの近侍で、九州平定・朝鮮出兵で武功を挙げ、関ヶ原の戦いでは黒田勢の中核として活躍した。官兵衛は又兵衛の判断力と武勇を高く評価し、自分の死後も嫡男・長政の重臣として位置づけた。しかし長政の評価は父と異なり、又兵衛を冷遇するようになった。官兵衛の影が深い又兵衛に対して、長政は自分の権威を確立する上で警戒心を抱いていたと推測される。
対立の深刻化
1604年に官兵衛が没すると、又兵衛と長政の関係は急速に悪化した。長政は又兵衛の知行を削減し、軍議から外し、城内の発言権を奪っていった。又兵衛は数回にわたって他大名への仕官交渉を試みたが、長政はその都度妨害した。1610年頃には両者の対立は藩内で公然たるものとなり、続く数年で又兵衛は退去を決意した。1611年、ついに又兵衛は福岡を去った。
奉公構と十年の流浪
退去後、長政は「奉公構」を発令した。奉公構とは、退去した家臣を他大名が雇用することを禁じる申し送りである。形式的には武士社会の慣例の一つだが、実質的には退去家臣を社会的に抹殺する制裁措置だった。又兵衛は奉公構によって正規の仕官ルートを完全に閉ざされた。十年近く各地を流浪し、京都・大坂・近畿各地で寄寓生活を続けた。この期間に又兵衛は浪人衆の中での名声を築き、戦国終結後の浪人ネットワークの中核的人物として知られるようになった。
大坂入城への伏線
1614年、大坂の陣が始まると、豊臣秀頼は関ヶ原以降に発生した大量の浪人を大坂城に招集した。又兵衛は十年の流浪生活で築いた人脈と評価により、大坂方の浪人衆五人衆の一人として招かれた。同時期に大坂城に入った真田信繁(幸村)、毛利勝永、明石全登、長宗我部盛親と並ぶ立場だった。又兵衛にとって大坂入城は、奉公構による排除から十年ぶりに正規の武士として戦場に立つ機会だった。翌1615年の道明寺の戦いで戦死するまでの一年余りが、又兵衛の浪人生活の集大成となった。
"武士は二君に仕えず、されど義は一つに非ず。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
黒田家譜
貝原益軒 (編)
後藤又兵衛の黒田家退去前後の記録を含む
- 学術文献
関ヶ原合戦と大坂の陣
笠谷和比古 / 吉川弘文館
又兵衛の黒田家退去と浪人化を実証的に検討
- 公的所蔵
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