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大坂浪人衆五人衆——なぜ秀頼は浪人を集めたのか
1614年の大坂冬の陣を控えた豊臣秀頼は、関ヶ原で敗れた西軍系の浪人を大坂城に大量招集した。後藤又兵衛・真田幸村・毛利勝永・明石全登・長宗我部盛親の五人を中核とする浪人衆は、十万を超える規模となった。
1614年(慶長十九年)、大坂冬の陣を控えた豊臣秀頼は、徳川との決戦に備えて大量の浪人を大坂城に招集した。総勢十万を超える浪人軍は、関ヶ原(1600)で敗れた西軍系の旧大名・家臣の生き残りで構成された。中でも後藤又兵衛・真田幸村(信繁)・毛利勝永・明石全登・長宗我部盛親の五人は大坂浪人衆五人衆と呼ばれ、防衛戦の中核を担った。
なぜ浪人だったか
秀頼が浪人を集めた理由は単純で、関ヶ原以降の十四年で大坂方に味方する大名がほぼ存在しなくなったからである。家康は関ヶ原後の論功行賞で西軍諸大名を改易・減封し、代わりに東軍諸大名と徳川一門に領地を分配した。1614年時点で六十五万石の大坂方に与する大名はほとんど残っておらず、戦力を確保するには、改易された旧西軍諸大名の家臣・家族と、十数年の浪人生活を送ってきた者たちを再雇用する以外に方法がなかった。
五人衆それぞれの背景
五人衆はいずれも関ヶ原以降に苦境を経て大坂に集まった。真田幸村は関ヶ原西軍参戦後に九度山で十四年の蟄居生活を送った後の招集。後藤又兵衛は1611年に黒田家を退去して十年の浪人生活を経た。毛利勝永は父・吉成が関ヶ原西軍として戦死し改易、四国土佐で逼塞生活。明石全登は宇喜多家の改易後にキリシタンとして潜伏。長宗我部盛親は父・元親の死後に家臣の擁立で当主となったが関ヶ原で西軍参加、改易後に京都で寺子屋を開いていた。
五人の戦死と一人の逃亡
1614年冬の陣で五人衆は大坂城防衛の中核を担い、特に真田幸村が南方の真田丸で徳川軍を撃退して名声を上げた。1615年夏の陣で五人衆の運命は劇的に分かれた。後藤又兵衛は5月6日道明寺で戦死、真田幸村は5月7日天王寺口で戦死、毛利勝永は5月7日同日に戦死、明石全登は同時期に行方不明(キリシタンとして信徒に匿われたという伝承あり)、長宗我部盛親は5月15日まで逃亡を続けたが捕縛されて処刑された。十万の浪人軍はわずか二日の本戦で壊滅した。
戦国終結の意味
五人衆の死と大坂城の落城は、戦国時代の制度的終結を意味した。関ヶ原以降に発生した大量の浪人という社会階層は、大坂の陣でほぼ消滅した。徳川幕府はこの戦闘以降、新たな浪人の発生を制度的に抑制する方向で武家諸法度を整備し、二百五十年の徳川支配の社会基盤を確立した。五人衆の名は江戸期以降「武士の最後の世代」として講談・歌舞伎で繰り返し主題化され、現代の歴史小説でも常に描かれ続けるテーマとなった。
"我ら五人、豊臣の御為に集ふ。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
大坂御陣覚書
大坂浪人衆五人衆の編成と役割を記録
- 学術文献
関ヶ原合戦と大坂の陣
笠谷和比古 / 吉川弘文館
大坂浪人衆の政治的・軍事的役割を実証的に解明
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート