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リーフデ号漂着——1600年、豊後臼杵に流れ着いた英国航海士
1600年4月19日、豊後国臼杵湾の海岸に一隻の異国船が漂着した。乗員は病死・餓死で百人以上から二十数名に減っていた。この船の航海士が、後に徳川家康の顧問となる英国人ウィリアム・アダムスだった。
1600年4月19日(慶長五年三月十六日)、豊後国臼杵湾(現在の大分県臼杵市周辺)。地元の漁民が海岸に流れ着いた奇妙な船を発見した。船体は損傷が激しく、甲板には病弱の乗員数十名が横たわっていた。
ロッテルダムから二年前に出港した五隻の船隊のうち、日本まで生き残った唯一の船。オランダ船『リーフデ号』の漂着だった。
船隊の壊滅
1598年6月にロッテルダムを出港した船隊は、大西洋・マゼラン海峡・太平洋を経てアジアを目指す当時としては最先端の遠洋航海だった。しかし五隻のうち四隻は嵐、難破、スペイン軍による拿捕で失われた。
リーフデ号だけがマゼラン海峡を越え、太平洋を横断し、二年近い航海の末に日本に到達した。乗員は病死・餓死で百人以上から二十数名に減少していた。
アダムスと家康の面談
リーフデ号漂着の報告は豊後の大名から中央に届き、当時大坂で天下取りの最終段階にあった徳川家康(関ヶ原の戦いはこの五か月後)は、船の航海士アダムスを大坂に召見した。
イエズス会宣教師の通訳を介した長時間の面談で、家康はアダムスの航海術・造船術・西洋情勢の知識に強い関心を示した。イエズス会は自らの布教活動への影響を懸念してアダムスの処刑を進言したが、家康はこれを退け、アダムスを外交顧問として重用する道を選んだ。
積荷の押収と幕府の武装強化
リーフデ号に積まれていた大砲十九門、鉄砲五百挺、鋳鉄五千、鉄砲弾五千発、毛織物・ガラス製品などは、家康の要請で押収された。関ヶ原合戦の直前で武装強化を急ぐ家康にとって、この積荷は貴重な軍事物資となった。
押収された大砲の一部は、後の大坂の陣(1614-1615)でも使用されたとされる。リーフデ号の漂着は、単なる異国船の漂着を超えて、日本の対外関係と戦国末期の政治構造に大きな影響を残す事件となった。
"リーフデ号、豊後臼杵に漂着。乗員二十四名、生き残り。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
アダムス書簡
英国東インド会社文書
アダムス自身が英国に送った書状群、リーフデ号航海の第一級史料
- 学術文献
三浦按針
森良和 / 山川出版社(世界史リブレット人)
リーフデ号航海と日本漂着を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート