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外国人旗本——アダムスはいかに『三浦按針』となったか
1605年、徳川家康は英国人ウィリアム・アダムスに相模国三浦郡逸見二百五十石の所領を与え、旗本として遇した。日本史上初の外国人侍の誕生と、以後の徳川外交における独自の役割を辿る。
1605年(慶長十年)、江戸。徳川家康はウィリアム・アダムスに相模国三浦郡逸見(現在の神奈川県横須賀市西逸見町)に二百五十石の所領を与えた。同時に旗本として遇し、二本の刀を差すことを許した。
日本史上初の外国人侍。『三浦按針』の誕生である。アダムス四十一歳、日本漂着から五年目のことだった。
旗本という地位の意味
旗本は徳川将軍家に直接仕える武士階級で、大名の下位に位置する。二百五十石は下級旗本の水準だが、外国人にこの地位を与えることは前例のない特例だった。アダムスは『三浦』の姓を所領地名から取り、『按針』の名は英語の pilot(案針=航海士)に由来する。
江戸日本橋にも屋敷を与えられ、日本人女性・お雪と結婚、日本人としての生活基盤が整えられた。
外交顧問としての活動
家康はアダムスを外交顧問として活用した。1600年頃までの日本の対外貿易はイエズス会宣教師の仲介するスペイン・ポルトガル系の南蛮貿易が中心だったが、アダムスの存在によりオランダ・イギリスとの直接交渉の道が開けた。
1609年のオランダ商館の平戸開設、1613年の英国東インド会社商館の平戸開設は、アダムスの仲介抜きには実現しなかった。日本の対外関係にプロテスタント諸国との関係という新しい選択肢を加えた歴史的意義がある。
洋式帆船の建造
アダムスは造船術の知識を活かし、家康の命により伊豆国伊東(現在の静岡県伊東市)で日本初の洋式帆船を建造した。1604年に80トン級、1607年に120トン級の帆船が完成した。
後者はスペイン領メキシコとの通商交渉のためドン・ロドリゴら遭難スペイン人を送還する用途で使用された。日本の造船史における洋式船建造の起点となった事業である。
1616年、家康没後の孤立
1616年に家康が没すると、アダムスの立場は急激に変化した。二代将軍・秀忠は対外貿易に消極的で、キリスト教禁教政策も強化した。アダムスは平戸を拠点に東インド貿易に関わり続けたが、江戸幕府の中枢からは距離を置かれた。
1620年、平戸で没した。享年五十五。家康との個人的結び付きに依存していたアダムスの地位は、後継者に引き継がれることなく終わった。日本史上唯一の外国人旗本という前例は、以後の江戸期を通じて再現されなかった。
"予は家康公の顧問として遇せられ、二本の刀を差すことを許された。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
アダムス書簡
英国東インド会社文書
アダムスの日本での地位を英国に伝える書状群
- 学術文献
三浦按針
森良和 / 山川出版社
アダムスの旗本就任と外交顧問活動を実証的に検討
- 公的所蔵
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