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島津追撃の銃創——直政の死を二年遅らせた関ヶ原

1600年9月15日、関ヶ原合戦の終盤で井伊直政は東軍中央突破を試みて退却する島津義弘部隊を追撃した。この追撃中に島津側の銃撃で受けた腿の銃創は致命傷とは見られなかったが、約一年半後の1602年2月に直政の死をもたらした。戦場での一発の銃弾が四十二歳の武将の生涯を閉じた経緯。

井伊直政関ヶ原島津

1600年9月15日(慶長五年九月十五日)の関ヶ原合戦は、東軍・徳川家康の勝利で約半日で決着した。しかしこの戦闘の終盤、想定外の事件が起きた。東軍の包囲を突破した薩摩・島津義弘の部隊が、戦場の真ん中を逆向きに突き抜けて伊勢方面へ脱出を図ったのである。

この島津の中央突破は戦国期合戦史に残る稀有な戦術行動で、追撃した東軍諸将の中で井伊直政も腿に銃創を負い、これが二年後の彼の死をもたらすことになる。

島津の中央突破

島津義弘は西軍として参戦したが、戦闘中の指揮系統の混乱から本格的な戦闘行動を取らなかった。東軍の勝利が決定的になった午後、義弘は約一千人の手勢で東軍の中央部を逆方向に突き抜けて脱出する「捨て奸(すてがまり)」戦法を採用した。

一定数の兵を残して殿軍として時間稼ぎをさせながら本隊が脱出する戦法で、義弘自身は伊勢方面を経て薩摩へ帰国することに成功した。東軍諸将は突如反転して逃げる島津を追撃した。

直政の追撃と銃創

井伊直政は東軍先鋒として開戦時の突撃から戦闘の主要場面に関与しており、戦闘終盤に島津追撃に加わった。追撃中、島津側の殿軍の鉄砲隊が反撃の射撃を行い、直政は腿に銃弾を受けた。

同じ追撃に加わった本多忠勝の馬も銃撃で倒れたとされる。直政の銃創は出血と痛みを伴うものの当時の判断では致命傷ではないと見られ、直政自身も戦後の論功行賞の場に出席した。

戦後の論功行賞

関ヶ原戦後の論功行賞で、直政は近江佐和山十八万石を与えられた。佐和山は西軍の石田三成の旧領で、京都・近江の要衝に位置する戦略的に重要な地である。直政の処遇は徳川四天王の中でも上位で、家康による信頼の厚さを示す。

直政は佐和山に入城して新領地の経営を開始したが、銃創の経過は思わしくなかった。

銃創の悪化と死

戦国期の銃創は、現代医学のない時代において感染症のリスクが非常に高かった。直政の銃創も完治せず、化膿を繰り返した。関ヶ原から約一年半後の1602年(慶長七年)2月1日、直政は佐和山城で没した。

享年四十二。関ヶ原の銃創が直接の死因とされる。一発の銃弾が一年半遅れて武将の生涯を閉じた事例として、戦国期合戦史に記録される。

「捨て奸」戦法の評価

島津義弘の中央突破と「捨て奸」戦法は、東軍諸将に多大な損害を与えた。直政の死だけでなく、本多忠勝の負傷、追撃した東軍諸将の戦死者多数を生んだ。義弘自身は薩摩へ帰国し、戦後の薩摩藩は減封されずに維持された(関ヶ原西軍側でこの処遇は稀)。

義弘の戦術判断は近世以降の軍学でも研究の対象となり、絶望的状況からの脱出の典型例として軍事教科書にも引用される。

直政の継承

直政の死後、井伊家は息子・直勝が継承したが、若年と病弱を理由に1615年に弟・直孝が家督を継いだ。直孝は本拠を佐和山から新城・彦根へ移し、彦根藩を確立した。直政が築いた井伊家の基礎は江戸期を通じて譜代筆頭格として継承され、徳川幕府最後の大老・井伊直弼(本サイト id 27)まで二百五十年続いた。

関ヶ原で受けた一発の銃弾は、長期的には井伊家の存続を脅かさず、徳川幕府の中核を担う家の出発点となった。

現代に残る伝承

彦根城博物館には直政が関ヶ原で着用した甲冑が伝えられ、銃創を負った経緯を伝える資料が展示されている。井伊家の伝承では、直政は銃創の悪化に苦しみながらも近江経営に尽力したとされる。

一発の銃弾が四十二歳の武将の死をもたらした関ヶ原の終盤は、合戦における運命の偶然と戦傷医療の限界を示す歴史的事例として記憶されている。

"島津の鉄砲、直政の腿を貫く。"
三河物語の趣旨(関ヶ原追撃の場面)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    三河物語

    大久保彦左衛門忠教

    関ヶ原の戦闘経過を伝える同時代家中記録

  • 学術文献

    関ヶ原合戦と近世の国制

    笠谷和比古 / 思文閣出版

    関ヶ原の戦闘経過と諸将の動向を実証的に検討

  • 公的所蔵

    関ヶ原町歴史民俗資料館

    岐阜県不破郡関ヶ原町

    関ヶ原合戦関連資料を所蔵

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第十章 — 関連レポート

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