1853–1912
幕末
幕末と明治維新(1853-1912)——黒船来航、勤王志士、そして近代日本の誕生。
収録人物 17 名
この時代の人物

SA-0071 / 1810
緒方洪庵
適塾で福沢諭吉・大村益次郎を育て、日本の近代医学・洋学の基礎を築いた蘭学者

SA-0027 / 1815
井伊直弼
不平等条約に調印し、江戸城門前で殺された大老

SA-0045 / 1823
勝海舟
江戸無血開城を実現した幕府最後の海軍卿、坂本龍馬の師

SA-0021 / 1828
西郷隆盛
明治維新を作った男が、自ら作った政府に対して死した

SA-0067 / 1829
武市半平太
土佐勤王党を率いて幕末の天誅政治を主導し、山内容堂の弾圧で自刃した志士

SA-0026 / 1830
大久保利通
西郷を出し抜き九か月後に暗殺された明治国家の設計者

SA-0036 / 1830
吉田松陰
松下村塾から明治維新を駆動した思想家

SA-0038 / 1833
木戸孝允
薩長同盟と五箇条の御誓文を実現した維新三傑の智謀家

SA-0031 / 1835
土方歳三
新選組副長、最後まで佐幕に殉じた剣士
- 岩
SA-0083 / 1835
岩崎弥太郎
土佐の最下層武士から身を起こし、海運で三菱財閥を築いた明治の大実業家

SA-0008 / 1836
坂本龍馬
幕府を倒した下級武士の革命家

SA-0046 / 1836
山岡鉄舟
江戸無血開城の道を開き、無刀流を編んだ幕末三舟の一人

SA-0022 / 1837
徳川慶喜
国を割らぬために自ら権力を返した最後の将軍

SA-0037 / 1839
高杉晋作
奇兵隊を組織し長州を倒幕へ導いた早世の革命家

SA-0047 / 1841
伊藤博文
初代内閣総理大臣、明治憲法を起草した松陰最後の弟子

SA-0035 / 1842?
沖田総司
新選組一番隊組長、結核に蝕まれた天才剣士

SA-0068 / 1847
中野竹子
会津戊辰戦争で薙刀娘子軍を率いて戦死した二十一歳の女武者
この時代の記事
船中八策——明治憲法を静かに先取りした一通の覚書
1867年、坂本龍馬は長崎から兵庫への蒸気船「夕顔」の船中で、八ヶ条の覚書を口述した。彼は31歳、脱藩浪士で、暗殺の三か月前。その覚書が近代日本の青写真となった。
熊本城——四百年崩れない城の設計
1601年から1607年に加藤清正が築いた熊本城は、その二百七十年後の1877年、薩摩軍が五十五日間攻めても落とせなかった。武士の遺産で実物として今日まで読める数少ない一つである。
城山——武士階級が終わった日
1877年9月24日、明治政府を作った男が、自ら作った政府に対して死した。西郷隆盛の城山での最期は通例、武士階級の終わりの日付とされている。その通例の日付は正しい。
なぜ最後の将軍は権力を返したか——徳川慶喜と大政奉還
1867年11月9日、第十五代徳川将軍は政権を朝廷に返上した。新たな立憲国家で徳川家が主要な構成員として残ると信じていた。彼はその点で誤算した。他のすべてでは正しかった。
親友を打ち砕いた設計者——大久保利通と近代日本の建設
1868年から1878年までの十年で、大久保利通は近代日本の制度設計を課した。政治的代償は生涯の友・西郷隆盛の破壊であった。西郷の死から九か月後、大久保自身も新国家が彼らから奪ったすべての責任を彼に問う者たちに殺された。
桜田の雪——幕府を終わらせた暗殺
1860年3月24日朝、水戸と薩摩の十八人の浪人が、江戸城の正門外で大老・井伊直弼を殺した。殺害は安政の大獄への私的復讐であった。政治的帰結は、徳川幕府が回復不能となったことである。
五稜郭——最後の侍共和国が死んだ場所
1869年5月、北海道函館の星型の城塞で、土方歳三と七千の旧幕府軍が敗北した。日本最初で最後の共和国は七か月の寿命だった。
池田屋事件——一夜が幕末を一年遅らせた
1864年6月の蒸し暑い夜、新選組の二十数名は京都三条の旅館を包囲し、長州・土佐・肥後の志士を斬り合いに巻き込んだ。倒幕運動は一時的に勢いを失った。
局中法度——新選組を恐れさせた五か条
「武士道に背いてはならない」「局を脱するを許さず」「勝手に金策を致してはならない」——新選組の内規はわずか五か条だが、違反は切腹だった。土方歳三が運用したこの法は、わずか百名の浪士集団を幕末最強の治安部隊に変えた。
池田屋の喀血——天才剣士はいつ病を知ったのか
1864年7月8日夜、新選組一番隊組長・沖田総司は池田屋の階上で長州志士と斬り合っていた。突然、口から血が溢れた。剣士としての沖田の終わりが始まった。
千駄ヶ谷の黒猫——沖田総司は最期に何を斬れなかったのか
1868年春、結核に伏した沖田総司は江戸千駄ヶ谷の植木屋で療養していた。庭の黒猫を斬ろうとした最後の記録は、天才剣士の終わりを象徴する逸話として今も語られる。
一番隊組長の剣——沖田総司は何を斬ったのか
新選組一番隊組長・沖田総司が同時代史料で確認できる戦闘参加は、池田屋・禁門の変・伊東甲子太郎暗殺を含む数件にとどまる。だが各々の場面で、彼は隊内で最も信頼される剣士だった。
留魂録——処刑五日前に書かれた一通の遺書
1859年10月27日、江戸伝馬町の獄中で処刑される五日前、吉田松陰は門下生たちに宛てた遺書を書き上げた。『留魂録』と呼ばれるその書状は、わずか五千字で松陰思想の核心と明治維新の方向性を凝縮していた。
黒船密航未遂——松陰はなぜペリー艦に乗り込もうとしたのか
1854年3月、再来航したペリー艦隊が下田に停泊する夜、吉田松陰は弟子と共に小舟を漕ぎ出して米艦に近づいた。乗船は拒絶され自首して投獄された。命懸けで何を求めていたのか。
松下村塾——二年半が明治を作った
1857年から1858年まで、吉田松陰が松下村塾を主宰した期間はわずか二年半。その間に高杉晋作・久坂玄瑞・伊藤博文・山県有朋ら、明治維新の主要な実行者が集中的に輩出された。一つの私塾が日本史を曲げた稀有な事例である。
奇兵隊——農兵連合が幕府軍を破った日
1863年に高杉晋作が下関で結成した奇兵隊は、武士階級に閉じない武装組織として日本初の近代的軍隊の原型だった。三年後の四境戦争で、この身分を問わない軍隊は幕府の正規軍を撃退した。
功山寺挙兵——八十人で藩論を倒幕に変えた夜
1864年12月、長州藩は第一次長州征伐に屈し幕府への恭順を進めていた。下関の功山寺で高杉晋作はわずか八十数名で挙兵し、三月で藩政を奪還、長州を再び倒幕の中心に押し戻した。明治維新の方向を決定づけた夜である。
二十七歳——高杉晋作の早世が変えなかったもの
1867年4月14日、高杉晋作は下関で病没した。享年二十七。明治維新の到来をわずか十か月見ずに死んだことになる。早世した革命家の遺産を、彼の死後の歴史が確実に実現させた。
練兵館から内閣まで——桂小五郎の二つの人生
桂小五郎(後の木戸孝允)は江戸練兵館の塾頭となるほどの剣才を示した剣士だった。同じ人物が三十代で薩長同盟を結び、四十代で明治新政府の制度設計を担った。剣士と政治家の二つの人生を持つ稀有な維新指導者だった。
薩長同盟の舞台裏——木戸孝允から見た交渉の現実
1866年1月、薩摩と長州は京都で同盟を結んだ。倒幕の決定的政治基盤を作ったこの合意の長州側当事者は桂小五郎(後の木戸孝允)である。仲介役・坂本龍馬の有名な伝承の影で、当事者から見た交渉の現実があった。
五箇条の御誓文——近代日本の憲法的骨格を起草した一夜
1868年4月6日、京都御所紫宸殿で明治天皇が五箇条の御誓文を公布した。広く会議を興し万機公論に決すべし、で始まる五か条は近代日本の制度設計の出発点となる。原案を起草したのは木戸孝允と由利公正だった。
江戸無血開城——西郷と勝が百万の街を救った日
1868年3月14日、勝海舟と西郷隆盛が薩摩屋敷で会談した。翌日の江戸城総攻撃を回避するための直接交渉だった。この一日の会談が、江戸百万の市民の生命と街の財産を戦火から守った。
咸臨丸——勝海舟がいかに日本の近代海軍を作ったか
1860年、勝海舟は咸臨丸の艦長として日本人だけで太平洋を渡った。長崎海軍伝習所での修学、咸臨丸の渡米、神戸海軍操練所の開設。勝海舟の生涯は日本の近代海軍の創設史そのものだった。
龍馬の師——勝海舟はいかに坂本龍馬を育てたか
1862年、土佐脱藩浪士・坂本龍馬は幕臣・勝海舟を斬りに来た。勝は龍馬と一晩語り合い、龍馬は刀を引いて勝の弟子となった。この一夜の出会いが、四年後の薩長同盟と大政奉還の起点となる。
駿府会談——山岡鉄舟が単身西郷に乗り込んだ日
1868年3月9日、山岡鉄舟は単身で官軍占領下の駿府に乗り込み、西郷隆盛と会談した。江戸無血開城の枠組みはこの一日の駿府会談で定まり、五日後の勝・西郷会談に繋がった。歴史を動かした無位無官の幕臣の一日。
無刀流——山岡鉄舟が剣と禅を統合した日
1880年、山岡鉄舟は剣と禅と書を統合した一刀正伝無刀流を開いた。塚原卜伝の無手勝流、上泉信綱の新陰流の系譜上にある「剣の最終形」として、明治の剣道思想を再構築する試みだった。
明治天皇の侍従——山岡鉄舟がいかに若き天皇を支えたか
1872年から1882年まで、山岡鉄舟は明治天皇の侍従を十年間務めた。当時十代後半の若き天皇に近代日本の精神性を伝える役割を担い、明治天皇の人格形成に深い影響を与えた。剣と禅の達人が天皇の側近となった稀有な十年。
初代総理大臣——伊藤博文が四十四歳で日本の首班となった日
1885年12月22日、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任した。四十四歳。世界最年少クラスの首相だった。松陰の弟子だった一農民の子が、二十八年で近代日本の頂点に立った異例のキャリアの背景には何があったのか。
明治憲法起草——伊藤博文がいかに国家の設計図を書いたか
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。起草の中心は伊藤博文。1882年からの欧州憲法調査、ベルツ・モッセら独墺学者との議論、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎ら起草班との共同作業。一人の政治家が国家の設計図を書いた七年の記録。
ハルビン駅——伊藤博文が韓国独立運動家に撃たれた日
1909年10月26日、ハルビン駅で初代韓国統監・伊藤博文は韓国独立運動家・安重根に撃たれ六十八歳で没した。日韓併合の前夜に起きたこの暗殺事件は、日韓関係の最も深い歴史的争点として現代まで続いている。
佐和山から彦根へ——井伊家二百五十年の基盤はいかに作られたか
1602年に井伊直政が没した後、息子の直勝・直孝の代に本拠を佐和山から新城・彦根へ移し、彦根藩三十万石が確立された。直政が築いた基礎が、江戸期を通じて譜代筆頭格・大老輩出家として続く井伊家の出発点となった経緯を辿る。
土佐勤王党結成——1861年、半平太は二百人の同志を集めた
1861年8月、江戸で修行を終えて土佐に戻った武市半平太は、剣術道場を拠点に土佐勤王党を結成した。約二百名の郷士・浪人・下級藩士を集めた組織は、以後三年間、幕末動乱の中核の一つとなる。
同郷の二人——武市半平太と坂本龍馬はなぜ違う道を選んだか
武市半平太と坂本龍馬は同じ土佐藩郷士の出身で、若い頃から親交があった。半平太が藩内政治を選び、龍馬が脱藩を選んだ二人の道の分かれ方は、幕末志士の異なる二つの類型を象徴する。
山内容堂の粛清——1865年、三十七歳の半平太は切腹した
1863年8月18日の政変で勤王派が朝廷から失勢、土佐でも前藩主・山内容堂による勤王党弾圧が始まった。約二年の獄中生活の後、1865年5月11日、半平太は切腹を命じられた。土佐勤王党の終焉。
会津の女性武術——竹子はどこで薙刀を学んだか
会津藩は女性藩士にも本格的な武術教育を施す稀有な藩だった。江戸屋敷で高橋秀太郎に師事した中野竹子は、この伝統の中で最高水準の薙刀の使い手として成長した。
涙橋——1868年8月25日、竹子は娘子軍を率いて銃弾に倒れた
1868年8月25日、会津坂下近郊の柳橋(後に涙橋)で、中野竹子率いる娘子軍二十数名が新政府軍と交戦した。半刻の戦闘で竹子は薙刀で数名を斬った後、銃弾に倒れた。享年二十一。
近代の中野竹子——敗者の記憶がいかに顕彰されたか
戊辰戦争は新政府軍の勝利で終わり、以後半世紀、会津の記憶は敗者として抑圧された。しかし大正期以降、中野竹子と娘子軍の物語は会津の民衆記憶の中で復活し、現代では海外にも知られる女性侍のアイコンとなった。
1838年、大阪に開かれた適塾——一人の蘭学者が始めた学問共同体
1838年、緒方洪庵は大阪船場に蘭学塾『適塾』を開設した。二十九歳の若き蘭学者が始めた小さな私塾は、以後二十五年で幕末から明治初期の日本の近代化を担う三千名の門下生を輩出することになる。
1849年の種痘——洪庵が日本の公衆衛生を始めた日
1849年、緒方洪庵は大阪で牛痘接種(種痘)を本格開始した。天然痘という人類最大の疫病に対する予防接種の日本での組織的導入は、日本の公衆衛生史における画期的事業となった。
適塾三千の門下生——福沢諭吉・大村益次郎が生まれた場所
適塾は洪庵の生涯で三千名を超える門下生を送り出した。福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、佐野常民、長与専斎。幕末から明治初期の日本の近代化を担った人材群のほぼ全員が、この大阪の小さな私塾を経由していた。
地下浪人の子——最下層から身を起こした男
岩崎弥太郎は、武士の身分すら失った地下浪人の家に生まれた。貧窮と屈辱、投獄までも味わった青年は、その鬱屈を成り上がりへの執念に変える。身分が全てを決める世への、痛烈な逆襲の始まりだった。
三菱の創業——1873年、廃藩の混乱を好機に変えた
廃藩置県で藩営事業が行き場を失うと、岩崎弥太郎はその船を引き継いで海運業に乗り出した。1873年に興した三菱商会は、激動の時代を機会と見た一人の男の賭けから始まった。
海運戦争——1885年、覇者は競争のさなかに斃れた
西南戦争の軍事輸送で巨利を得た岩崎弥太郎は、海運界の覇者となった。だが政府系の共同運輸との激烈な運賃競争が彼を苦しめる。日本一の富を築いた男は、その死闘のさなかに志半ばで世を去った。