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資料No. SA-0047

侍アーカイブ

伊藤博文

Itō Hirobumi

初代・五代・七代・十代内閣総理大臣、初代韓国統監

第一章 — 人物概要

氏名伊藤博文
英名Itō Hirobumi
出身日本
生没年1841–1909
性別男性
世紀19世紀
家・役職政治家
肩書初代・五代・七代・十代内閣総理大臣、初代韓国統監

第二章 — 経歴

1841年、周防国熊毛郡束荷村(現在の山口県光市)に農民の長男として生まれる。幼名は利助、明治後に博文と改めた。1857年に松下村塾に入門、吉田松陰の最年少クラスの弟子となった。

1863年に井上馨らと密かにイギリスへ密航留学し、西洋文明を直接学んだ。維新後は岩倉使節団に副使として参加(1871-1873)、欧米十二か国を視察。帰国後は参議として明治政府の中核を担い、1885年に内閣制度創設と共に初代内閣総理大臣に就任、四十四歳という当時世界最年少クラスの首相となった。

1889年、大日本帝国憲法発布、伊藤が起草の中心人物だった。日清戦争・日露戦争の時期に内閣を率い、1906年に初代韓国統監。1909年10月26日、ハルビン駅で韓国独立運動家・安重根に暗殺され、六十八歳で没した。

第三章 — 年表

1841周防国熊毛郡束荷村に生誕
1857松下村塾に入門、吉田松陰の弟子となる
1863井上馨らとイギリスに密航留学
1871岩倉使節団の副使として欧米視察(-1873)
1885初代内閣総理大臣に就任(四十四歳)
1889大日本帝国憲法発布、起草の中心人物
1900立憲政友会を結成、初代総裁
1906初代韓国統監に就任
1909ハルビン駅で安重根に暗殺、享年六十八

第四章 — 名言

国の興廃は人にあり、人の興廃は学にあり

第五章 — 逸話

[A]イギリス密航留学

1863年、長州藩の若き志士であった伊藤博文は、井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・井上勝の四人と共に、藩の許可を得ずにイギリスへ密航した。横浜から上海経由でロンドンに到達し、ロンドン大学で英語と西洋学を学んだ。攘夷運動の最中に「敵国」へ密航するという危険な選択は、伊藤の生涯を決定づけた。直接見たイギリスの産業文明と政治制度は、後の明治憲法起草と内閣制度導入の理論的基盤となった。半年余りの短期間ながら、近代日本の国家設計を担う者の原点となった経験だった。

第六章 — 影響と遺産

伊藤博文は初代内閣総理大臣として近代日本の政治制度を作り上げた人物である。大日本帝国憲法(1889)の起草過程で中心的役割を果たし、ドイツ憲法を参考にしつつも日本独自の立憲君主制を設計した。内閣制度・枢密院・貴族院など、近代日本の主要な統治機構の多くが伊藤の構想に基づく。松下村塾の最年少クラスの弟子として吉田松陰の思想を最も実践的に継承した人物でもあった。一方で韓国統監としての朝鮮統治と1909年のハルビン暗殺は、日韓関係の最も大きな歴史的論点として現代まで続いている。山口県萩市の生家跡には伊藤博文旧宅が現存し、千円札の肖像にも長く用いられた近代日本の象徴的人物である。

第七章 — 主な功績

  • [01]イギリス密航留学(1863)
  • [02]岩倉使節団副使(1871-1873)
  • [03]初代内閣総理大臣(1885)
  • [04]大日本帝国憲法起草(1889)
  • [05]帝国憲法皇室典範義解(1889)

第八章 — 参考資料

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    帝国憲法皇室典範義解

    伊藤博文

    伊藤博文自身による憲法の公式解釈書、近代日本立憲主義の原典

  • 学術文献

    伊藤博文 近代日本を創った男

    伊藤之雄 / 講談社(学術文庫)

    近年の伊藤博文研究の代表的著作

  • 公的所蔵

    萩博物館

    山口県萩市

    伊藤博文を含む長州藩出身明治元勲の資料を所蔵

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