関連レポート
初代総理大臣——伊藤博文が四十四歳で日本の首班となった日
1885年12月22日、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任した。四十四歳。世界最年少クラスの首相だった。松陰の弟子だった一農民の子が、二十八年で近代日本の頂点に立った異例のキャリアの背景には何があったのか。
1885年(明治十八年)12月22日、伊藤博文は初代内閣総理大臣に就任した。四十四歳。当時の世界で見ても最年少クラスの首相であり、松下村塾の貧農の子が二十八年で近代日本の頂点に立った異例のキャリアだった。同日に内閣制度が発足し、伊藤は明治日本の政治構造を根本的に再設計する責任を担った。
内閣制度の創設
1885年以前の明治政府は太政官制と呼ばれる体制で、太政大臣を頂点に左大臣・右大臣・参議が並ぶ伝統的な構造を取っていた。三条実美が太政大臣を務めていたが、近代国家の意思決定機関としては機能不全が目立っていた。伊藤博文はこの旧体制を廃止し、英独の議院内閣制を参考にした新しい内閣制度を構想した。総理大臣の下に各省大臣を置き、合議による意思決定と責任の所在の明確化を図る仕組みだった。1885年12月22日、太政官制廃止と内閣制度発足が同日に実行され、伊藤が初代総理大臣に就任した。
なぜ伊藤だったか
初代総理大臣に伊藤が選ばれた理由は三つある。第一に、欧米視察の経験。岩倉使節団の副使として欧米十二か国を視察し、近代国家の運営を直接見ていた。第二に、憲法起草の準備。伊藤は1882年から二度目の欧州渡航で憲法調査を行っており、近代国家の制度設計に最も詳しい政府要人だった。第三に、長州閥の中での若手筆頭格としての位置。木戸孝允が没した後の長州閥を代表する位置にあり、薩摩の大久保利通の没後の新世代を代表する政治家として認知されていた。
初代内閣の陣容
初代伊藤内閣の陣容は、外務大臣・井上馨、内務大臣・山県有朋、大蔵大臣・松方正義、陸軍大臣・大山巌、海軍大臣・西郷従道、司法大臣・山田顕義、文部大臣・森有礼、農商務大臣・谷干城、逓信大臣・榎本武揚。長州・薩摩・佐賀・土佐の維新諸藩出身者で構成された藩閥内閣だった。井上・山県・松方ら後に総理大臣を務める人材が並び、明治日本の政治構造を象徴する顔ぶれだった。
総理大臣としての功績
伊藤博文は生涯で四度総理大臣を務めた(第一次1885-1888、第二次1892-1896、第三次1898、第四次1900-1901)。第一次内閣では大日本帝国憲法の起草(1889発布)を主導し、第二次内閣では日清戦争の指導(1894-1895)、第三次・第四次では立憲政友会の創設(1900)と政党政治への移行を試みた。明治日本の主要な政治的画期の多くが伊藤の関わるところで実現した。一農民の子が築いた近代日本の政治制度は、現在の日本国憲法体制にも基本構造において継承されている部分が多い。
"国の興廃は人にあり、人の興廃は学にあり。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
帝国憲法皇室典範義解
伊藤博文
伊藤博文自身による近代日本国家構想の解説
- 学術文献
伊藤博文 近代日本を創った男
伊藤之雄 / 講談社(学術文庫)
近年の伊藤研究の代表的著作
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート