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明治憲法起草——伊藤博文がいかに国家の設計図を書いたか
1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布された。起草の中心は伊藤博文。1882年からの欧州憲法調査、ベルツ・モッセら独墺学者との議論、井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎ら起草班との共同作業。一人の政治家が国家の設計図を書いた七年の記録。
1889年(明治二十二年)2月11日、大日本帝国憲法が発布された。アジア初の近代立憲制憲法であり、起草の中心人物は伊藤博文だった。1882年から1889年までの七年間、伊藤は欧州の憲法を調査し、国内の起草班と協議し、最終的に一個の国家の設計図を完成させた。一人の政治家が憲法を書くという、近代史でも稀な事例の一つである。
欧州憲法調査(1882-1883)
1882年(明治十五年)、伊藤博文は政府の命令で欧州に渡り、約一年半にわたり憲法調査を行った。最初の半年はベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインらに師事し、ドイツ・オーストリアの立憲君主制を直接学んだ。当初フランス共和制憲法やイギリス慣習法的体制も検討したが、明治日本の天皇制との整合性を考えると独墺型の立憲君主制が最適という結論に達した。伊藤の選択は後の明治憲法の基本構造を決定づけた。
起草班の編成
帰国後の1884年(明治十七年)、伊藤は憲法起草のための専従班を編成した。中核メンバーは井上毅(熊本出身、法学者)、伊東巳代治(伊藤の腹心)、金子堅太郎(米国留学経験)、ロエスレル(独人法律顧問)、モッセ(独人法律顧問)。日本人と外国人法学者の協働で、伊藤の総合的構想を具体的条文に翻訳する作業だった。実質的な条文起草の多くは井上毅が担当し、伊藤は全体の方向性と政治的判断を担った。
夏島での集中起草
1887年(明治二十年)夏、伊藤・井上・伊東・金子の四人は神奈川県横須賀沖の夏島に籠もり、約一か月にわたり集中的に憲法草案を作成した。世間から隔離された島での起草は、政治的圧力を避けて純粋に法的論理に基づく草案を作るための工夫だった。夏島草案がその後の修正過程を経て1889年の発布版に至る。日本国憲法以前の日本最高法規を、四人の人間が一夏で書き上げたという事実は、明治の指導層の構想力の高さを示している。
発布と国民の反応
1889年2月11日、大日本帝国憲法は明治天皇から国民に「欽定憲法」として発布された。同日は紀元節(現在の建国記念の日)であり、神武天皇即位の日として選ばれた。東京は祝賀ムードに包まれ、外国紙も「アジア初の近代憲法」として高く評価した。憲法は天皇を国家元首とし、議会・内閣・司法の三権分立を採用、国民の権利義務を明文化した。伊藤博文の七年の構想が国家の基本法として結実した瞬間だった。
憲法の歴史的評価
大日本帝国憲法は1947年の日本国憲法施行まで五十八年間にわたり日本の最高法規として機能した。立憲君主制と議会制という近代政治の基本構造を初めて日本に導入した点で、明治日本最大の制度的成果とされる。一方、軍部の独走を許す要素も含んでおり、二十世紀の日本の対外膨張政策を支えた制度的基盤ともなった。伊藤博文の構想は時代の制約の中で書かれたものだが、近代日本の政治制度の出発点として現代の憲法学・政治史研究でも最も重要な分析対象であり続けている。
"憲法は国家の基本にして、君民の関係を定むるものなり。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
帝国憲法皇室典範義解
伊藤博文
伊藤博文自身による憲法の公式解釈書
- 学術文献
伊藤博文 近代日本を創った男
伊藤之雄 / 講談社(学術文庫)
憲法起草過程を実証的に詳述
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート