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ハルビン駅——伊藤博文が韓国独立運動家に撃たれた日

1909年10月26日、ハルビン駅で初代韓国統監・伊藤博文は韓国独立運動家・安重根に撃たれ六十八歳で没した。日韓併合の前夜に起きたこの暗殺事件は、日韓関係の最も深い歴史的争点として現代まで続いている。

伊藤博文ハルビン暗殺日韓関係

1909年(明治四十二年)10月26日午前9時30分頃、満州・ハルビン駅頭で初代韓国統監・伊藤博文は韓国独立運動家・安重根に拳銃で撃たれた。六十八歳。即座に列車内に運ばれたが約三十分後に絶命した。明治日本最大の指導者の一人が殉職するという事件は、当時の日本社会と国際社会に大きな衝撃を与えた。日韓関係の最も深い歴史的争点が始まった瞬間だった。

ハルビン訪問の目的

伊藤博文がハルビンを訪れた目的は、ロシアの大蔵大臣ココフツォフとの会談だった。当時の満州・朝鮮を巡る日露間の協議は緊張を高めており、伊藤は元韓国統監・現枢密院議長として、両国関係の調整役を担っていた。会談の主題は満州における日露両国の権益調整と、朝鮮半島の処遇についての非公式協議だったとされる。伊藤の側近・室田義文ら数名が同行した非公式の訪問だった。

安重根の動機

安重根(1879-1910)は韓国独立運動の活動家で、当時三十歳。1905年の第二次日韓協約による韓国の保護国化、1907年の第三次日韓協約による軍隊解散、伊藤の韓国統監としての統治を「韓国の主権侵害」と見做し、伊藤の暗殺を「韓国独立のための義挙」として計画した。安重根は同志数名と協議の上、伊藤がハルビンを訪問するとの情報を得て待ち伏せ、駅頭で実行に至った。安重根は犯行後に韓国国旗を取り出し「韓国万歳」と叫んで現場で逮捕された。

事件の経過

1909年10月26日午前9時、伊藤博文一行を乗せた列車がハルビン駅に到着した。伊藤はココフツォフ蔵相と短時間会談した後、駅頭に出てロシア軍儀仗隊の閲兵を行った。閲兵を終えて列車に戻る途中、群衆の中から安重根が拳銃で六発を発射、伊藤は胸部・腹部に三発を受けた。即座に列車内に運ばれ、随行医・小山善が応急処置を試みたが、約三十分後に死亡した。安重根は同時に逮捕され、後にロシアから日本に引き渡されて旅順監獄で裁判を受け、1910年3月26日に処刑された。

歴史的余波

伊藤博文の暗殺は日本国内に「韓国併合論」を強める結果となった。生前の伊藤は実は韓国併合に消極的で、韓国の保護国化を推進しつつも完全な併合は時期尚早と考えていたとされる。伊藤の死後、桂太郎首相・小村寿太郎外相・寺内正毅統監らの併合派が主導権を握り、1910年8月の日韓併合条約に至る。歴史の皮肉として、伊藤の暗殺が併合を加速したという面がある。日韓両国における伊藤と安重根の評価は対照的で、現代の日韓関係においても両国の歴史認識の最も深い争点の一つであり続けている。

"東洋平和の実現のため、伊藤博文を撃った。"
安重根 旅順監獄での供述(要旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    韓国併合関係資料

    外務省外交史料館 所蔵

    ハルビン事件の同時代外交記録

  • 学術文献

    伊藤博文 近代日本を創った男

    伊藤之雄 / 講談社(学術文庫)

    ハルビン暗殺事件の背景と影響を実証的に検討

  • 公的所蔵

    萩博物館

    山口県萩市

    伊藤博文関係資料を所蔵

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第十章 — 関連レポート

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