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一番隊組長の剣——沖田総司は何を斬ったのか
新選組一番隊組長・沖田総司が同時代史料で確認できる戦闘参加は、池田屋・禁門の変・伊東甲子太郎暗殺を含む数件にとどまる。だが各々の場面で、彼は隊内で最も信頼される剣士だった。
新選組一番隊組長・沖田総司が史料で確認できる主要戦闘参加は、池田屋事件(1864)、禁門の変(1864)、明保野亭事件(1864)、山南敬助切腹介錯(1865)、伊東甲子太郎暗殺(1867)、鳥羽伏見の戦い(1868)などの数件である。これは新選組内では多い方ではない。土方歳三や永倉新八と比べて参加事件の数は少ない。しかし参加した場面では常に先頭か中核を担っていた。
池田屋での役割
1864年7月8日の池田屋事件で、沖田は近藤勇・永倉新八・藤堂平助と共に屋内に踏み込んだ最初の四人の一人だった。屋内の二階に二十数名の長州・土佐・肥後の志士が会合中で、沖田は階段を駆け上がり長州・肥後系の志士と斬り合った。記録上は斬り合いの最中に喀血で離脱したため、沖田自身が討ち取った人数は明確ではない。だが屋内戦で最初の突入を担う役割は、隊内で最も剣才を信頼された者にしか任せられない位置だった。
山南敬助の切腹介錯
1865年2月、新選組副長心得・山南敬助は組を脱走しようとして連れ戻され、隊規違反として切腹を命じられた。介錯を命じられたのは沖田だった。山南は沖田にとって試衛館時代からの親友であり、介錯の依頼は隊内で最も重い任務だった。沖田はこれを引き受け、二月二十三日に役目を果たした。介錯の場面は新選組内の規律と人情の境界を象徴する出来事として、後の創作に繰り返し取り上げられた。
伊東甲子太郎暗殺
1867年11月、新選組参謀・伊東甲子太郎は思想対立により組を離れて御陵衛士を結成、新選組と対立した。土方歳三は伊東を七条油小路で待ち伏せして暗殺、沖田を含む数名がこれに加わった。伊東は新選組内で文人として尊敬された存在で、沖田にとっても複雑な対象だった。この暗殺は新選組の組織管理の苛烈さを示すと同時に、沖田が戦闘要員として最後まで現役だった証拠でもある。約半年後、沖田は結核症状の悪化で活動不能となる。
天才剣士という評価
沖田の戦闘記録は数だけ見れば多くないが、隊内では撃剣師範として若手剣士の教育を担い、剣才について近藤・土方ら幹部は最も高く評価していた。永倉新八は『新撰組顛末記』で沖田の剣を「天才」と評し、新選組四天王の中でも最強と位置づけた。同時代史料による評価としてはこの永倉の証言が決定的に重い。沖田の天才剣士という像は明治以降の創作が拡大したものだが、永倉の証言という土台はあった。
"沖田総司は天才剣士なり。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
新撰組顛末記
永倉新八
沖田の戦闘記録を同僚として記述
- 学術文献
新選組
大石学 / 中公新書
沖田を含む新選組幹部の戦闘参加記録を実証的に整理
- 公的所蔵
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