資料No. SA-0035
侍アーカイブ
沖田総司
Okita Sōji
新選組一番隊組長

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 沖田総司 |
|---|---|
| 英名 | Okita Sōji |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1842?–1868 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 19世紀 |
| 家・役職 | 幕士 |
| 肩書 | 新選組一番隊組長 |
第二章 — 経歴
1842年か1844年頃、武蔵国の白河藩士の家に生まれたとされる。九歳前後で天然理心流近藤勇の試衛館に内弟子として入門、十代半ばで塾頭となるほどの剣才を示した。1863年、新選組結成と共に上京し、一番隊組長兼撃剣師範に就任した。
池田屋事件(1864)では先頭で斬り込み、屋内戦の最中に結核の喀血で離脱した。以降は病と戦いながら剣を振るい続けたが、1867年頃から症状が悪化、1868年5月30日、千駄ヶ谷の植木屋平五郎宅で死去した。享年二十五か二十七、生年に諸説あるため確定できない。
新選組屈指の剣才として隊内の信頼篤く、明治以降の小説・映画・漫画で天才剣士の代名詞となった。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“黒猫が斬れない”
第五章 — 逸話
[A]黒猫の話
晩年、療養中の沖田は庭の黒猫を斬ろうと刀を構えたが、ついに斬ることができなかったと伝わる。剣の天才と呼ばれた身が病に侵された姿を象徴する逸話として、子母澤寛以降の小説・映画で繰り返し描かれた。同時代史料による裏付けはない後代の伝承である。
第六章 — 影響と遺産
沖田は新選組の戦力の中核として池田屋・禁門の変・伊東甲子太郎暗殺などに参加、撃剣師範として組内の若手剣士の指導も担った。結核による早すぎる死により戊辰戦争には参戦できなかったが、明治以降の作家・劇作家は彼の天才と病の対比を好み、新選組屈指の人気キャラクターとなった。海外では司馬遼太郎の作品の英訳と、現代のアニメ・漫画キャラクター化を通じて、土方歳三と並ぶ知名度を持つ。
第七章 — 主な功績
- [01]天然理心流塾頭
- [02]新選組一番隊組長(1863)
- [03]池田屋事件参戦(1864)
- [04]撃剣師範として隊士教育
- [05]千駄ヶ谷での療養と病没(1868)
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
新撰組顛末記
永倉新八
沖田の同僚・新選組生き残り隊士による回顧録
- 学術文献
新選組
大石学 / 中公新書
近年の標準的な新選組史
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
SA-RPT
池田屋の喀血——天才剣士はいつ病を知ったのか
1864年7月8日夜、新選組一番隊組長・沖田総司は池田屋の階上で長州志士と斬り合っていた。突然、口から血が溢れた。剣士としての沖田の終わりが始まった。
SA-RPT
千駄ヶ谷の黒猫——沖田総司は最期に何を斬れなかったのか
1868年春、結核に伏した沖田総司は江戸千駄ヶ谷の植木屋で療養していた。庭の黒猫を斬ろうとした最後の記録は、天才剣士の終わりを象徴する逸話として今も語られる。
SA-RPT
一番隊組長の剣——沖田総司は何を斬ったのか
新選組一番隊組長・沖田総司が同時代史料で確認できる戦闘参加は、池田屋・禁門の変・伊東甲子太郎暗殺を含む数件にとどまる。だが各々の場面で、彼は隊内で最も信頼される剣士だった。



