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池田屋の喀血——天才剣士はいつ病を知ったのか
1864年7月8日夜、新選組一番隊組長・沖田総司は池田屋の階上で長州志士と斬り合っていた。突然、口から血が溢れた。剣士としての沖田の終わりが始まった。
1864年7月8日(元治元年6月5日)夜、京都三条小橋西の旅館・池田屋の二階で、新選組一番隊組長・沖田総司は長州・土佐・肥後の志士と斬り合っていた。屋内戦は約二時間続いた。途中、沖田は階段の途中で口から血を吐き、戦闘から離脱した。永倉新八の『新撰組顛末記』は、これを沖田の病を示す最初の同時代記録として簡潔に伝えている。
喀血の意味
喀血は当時の医学では結核の主要症状として認識されていた。江戸期の結核は労咳と呼ばれ、不治の病として恐れられていた。沖田の喀血が新選組内に知れ渡った時、隊内では沖田の病状について公的な対応は取らなかったが、近藤勇・土方歳三・永倉新八ら幹部は沖田の戦闘能力の限界を理解していたとされる。沖田自身も自分の病を理解していたが、戦闘部隊からの離脱は拒んだ。
病を抱えての三年
池田屋から1867年頃まで、沖田は新選組の主要事件にほぼ全て参加した。1864年7月の禁門の変、1865年の山南敬助切腹に介錯として立ち会い、1867年11月の伊東甲子太郎暗殺などにも関与した。喀血の発作は徐々に頻度を増し、1867年に入ると戦闘任務から外れがちになった。組内では沖田の役割は撃剣師範と若手剣士の指導に重心を移していった。
なぜ池田屋で喀血したか
沖田の結核が池田屋以前にあったかは推測の域を出ないが、屋内での長時間の白兵戦という極度の身体負荷が、潜伏していた結核を表面化させた可能性は高い。当時の結核は栄養状態・過労・寒暖差で症状が顕在化する病として知られており、京都の夏の屋内戦という条件はそれらを満たしていた。池田屋の二時間は、幕末政治史を変えた事件であると同時に、新選組最強の剣士の身体に決定的な刻印を残した二時間でもあった。
"沖田総司倒る。喀血なり。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
新撰組顛末記
永倉新八
池田屋事件中の沖田喀血を同僚として記録
- 学術文献
新選組
大石学 / 中公新書
池田屋事件の経過と沖田の役割を近年の研究で再検証
- 公的所蔵
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