保管文書
JPN

資料No. SA-0027

侍アーカイブ

井伊直弼

Ii Naosuke

徳川幕府大老

第一章 — 人物概要

氏名井伊直弼
英名Ii Naosuke
出身日本
生没年1815–1860
性別男性
世紀19世紀
家・役職大名
肩書徳川幕府大老

第二章 — 経歴

1815年、彦根藩主・井伊家の十四男として生まれた。彦根の主となる可能性は最も低かった。年長の兄たちが死去や養子縁組で次々と消え、1850年に彼が継いだ。

五年と経たぬうちに、幕府の対米条約危機が彼を国政の中心に押し上げた。1858年から大老として、彼の任期を定義し命を奪った二つの決断を下した。第一は1858年、勅許を得ぬまま日米修好通商条約に調印したことである。

「不平等条約」と呼ばれ、米国に有利な条件で日本を貿易に開いた条約だった。第二は1858年から1859年の安政の大獄で、百人を超える政敵を処刑、流罪、罷免した。皇国忠勤運動の最も著名な人物たちが含まれた。

1860年3月24日朝、彼が最も激しく粛清した水戸と薩摩の十八人の浪人が、江戸城桜田門外で彼の駕籠を襲った。幕府中枢の建物が見える雪の中で、首が落とされた。

第三章 — 年表

1815彦根藩・井伊家に生誕
1850彦根藩主家督を継承
1858大老就任、勅許なきまま日米修好通商条約に調印
1858安政の大獄を開始
1860桜田門外で暗殺、四十五歳

第四章 — 名言

勅許を待てば外国の軍艦が京の港に来るまで待つことになる

第五章 — 逸話

[A]雪の中の刺客

1860年3月24日の前夜、雪が深く降った。桜田門外は朝の刻にいつになく静かだった。十八人の浪人が、井伊の行列の通る道沿いに位置取った。最初の一人が駕籠に銃弾を撃ち込んで合図とし、他の者が刀で詰め寄った。井伊の警護役は手の冷えで剣を抜き切れず、数分で制圧された。浪人たちは証拠として首を取り、現場を離れた。

第六章 — 影響と遺産

井伊直弼は日本政治史で最も評価が分かれる人物の一人である。戦前の皇国忠勤主義の歴史記述は、勅許なきまま不平等条約に調印した彼を半ば反逆者として扱った。戦後の研究はより同情的で、彼の条約調印を砲艦最後通牒に対する唯一の現実的応答、過酷な大獄を幕府を保つための必死の試みとして扱う。いずれにせよ、桜田門外の暗殺は、それ以後幕府が救いようのない地点に至った政治的瞬間として、多くの歴史家に位置付けられている。

第七章 — 主な功績

  • [01]彦根藩政の改革(1850年代)
  • [02]日米修好通商条約調印(1858)
  • [03]安政の大獄(1858–1859)
  • [04]彦根における茶道文化の保護

第八章 — 参考資料

資料終了 -- SA-00271 / 1 ページ