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薩長同盟の舞台裏——木戸孝允から見た交渉の現実

1866年1月、薩摩と長州は京都で同盟を結んだ。倒幕の決定的政治基盤を作ったこの合意の長州側当事者は桂小五郎(後の木戸孝允)である。仲介役・坂本龍馬の有名な伝承の影で、当事者から見た交渉の現実があった。

薩長同盟木戸龍馬

1866年1月21日(慶応二年正月二十一日)、京都・小松帯刀邸で薩摩藩家老・小松帯刀および西郷隆盛と、長州藩・桂小五郎(後の木戸孝允)との間で六か条の盟約が交わされた。薩長同盟である。この合意がなければ翌1867年の大政奉還も、1868年の戊辰戦争での倒幕勝利も成立しなかった。倒幕の決定的政治基盤を作った一夜である。

なぜ薩摩と長州は同盟が困難だったか

薩長両藩は1864年の禁門の変で正面衝突していた。京都で発砲した長州藩を御所警備の薩摩藩が撃退する形になり、長州側には深い遺恨が残った。「薩賊会奸」の語が長州志士の間で使われるほどの感情的対立があった。同盟は単なる戦略的合意ではなく、二年前の戦闘で死者を出した両藩が政治的判断で過去を上書きする決断を必要とした。桂を含む長州側交渉者にとって、これは個人的にも極めて難しい選択だった。

龍馬の仲介と桂の沈黙

土佐脱藩の坂本龍馬と中岡慎太郎が両藩の間を往復して交渉を仲介した経緯は広く知られる。だが交渉の最終段階、桂と西郷が直接面談する段階で、桂は十日間ほど沈黙して同盟提案を切り出さなかったという有名な逸話がある。長州が現に朝敵指定下で苦境にあるにもかかわらず、薩摩に頭を下げる形になることを桂は避けた。最終的に龍馬が桂の心情を察して西郷に切り出させ、合意が成立した。木戸孝允日記の該当部分には桂自身の躊躇が短く記録されている。

六か条の中身

盟約の本文は六か条。第一に長州が幕府軍と戦う場合は薩摩が後方支援する、第二に長州勝利時は薩摩が朝廷工作で長州赦免を進める、第三に長州敗北時も薩摩が朝廷で長州の立場を擁護する、等。形式的には軍事同盟ではなく、京都朝廷を舞台とした政治連携の合意である。だが実質的にはこの六か条が、その後二年の倒幕戦争の政治枠組み全てを規定した。坂本龍馬は文書の裏面に裏書きを書き、桂に渡した。同盟成立を歴史的に確定させる文書として現存する。

"六ヶ条の御約定、たしかに承知致候"
坂本龍馬 木戸宛裏書き(慶応二年二月五日)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    木戸孝允日記

    木戸孝允

    薩長同盟交渉期間の長州側当事者による記録

  • 学術文献

    坂本龍馬

    松浦玲 / 岩波新書

    薩長同盟を仲介した龍馬の活動を実証的に詳述

  • 公的所蔵

    京都霊山護国神社

    京都市東山区

    幕末志士関係資料の中心、薩長同盟関係資料を含む

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第十章 — 関連レポート

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