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駿府会談——山岡鉄舟が単身西郷に乗り込んだ日

1868年3月9日、山岡鉄舟は単身で官軍占領下の駿府に乗り込み、西郷隆盛と会談した。江戸無血開城の枠組みはこの一日の駿府会談で定まり、五日後の勝・西郷会談に繋がった。歴史を動かした無位無官の幕臣の一日。

山岡鉄舟駿府会談西郷隆盛

1868年3月9日(慶応四年三月九日)、山岡鉄舟は単身で官軍占領下の駿府(現在の静岡市)に乗り込み、新政府軍参謀の西郷隆盛と会談した。三十二歳。無位無官の一介の幕臣でありながら、敵中に乗り込んで歴史を動かした稀有な一日だった。江戸無血開城の枠組みは、この駿府会談で実質的に定められた。

勝海舟からの密命

1868年三月、新政府軍が東海道を進軍し駿府に到達した時、勝海舟は江戸無血開城の交渉相手として西郷隆盛との直接接触を必要としていた。勝自身は江戸城の防衛責任があり動けない。代わりに送るべき信頼できる使者として選ばれたのが山岡鉄舟だった。鉄舟は当時、幕府の精鋭隊頭として軍事行動にも参加していたが、勝の密命を受けて単身で駿府に向かう決断をした。供奉も護衛もなく、敵中突破を試みる無謀とも見える行動だった。

駿府への単身行

鉄舟は三月七日に江戸を出発し、官軍駐屯地を抜けて九日に駿府に到達した。途中で何度も官軍兵に誰何されたが、「朝廷に上申すべき幕府の使者である」と堂々と名乗り続け、最終的に西郷の本陣に通された。同道していたのは益満休之助という旧薩摩藩士で、彼の身分を保証する役割を果たした。鉄舟の堂々たる態度は西郷にも一目置かれることになる。

西郷との会談内容

鉄舟は西郷に対し、徳川慶喜の助命、徳川家の家名存続、江戸の戦火回避を求める五条件を提示した。当初西郷は「慶喜は備前藩に預ける」「江戸城を明け渡す」など厳しい条件を示したが、鉄舟は「主君を他藩に預けることは家臣として承服できない」と粘り強く議論し、最終的に「水戸謹慎」という折衷案で合意した。鉄舟の毅然とした態度と論理的説得力に西郷も応え、この日の会談で江戸無血開城の枠組みが定まった。

勝・西郷会談への橋渡し

鉄舟の駿府会談から五日後の三月十四日、勝海舟と西郷隆盛が江戸田町の薩摩屋敷で正式に会談し、江戸無血開城が決定した。勝・西郷会談で論議された条件のほぼ全ては、駿府で鉄舟と西郷が合意したものだった。鉄舟の駿府行きがなければ、勝・西郷会談での短時間決着はあり得なかった。後年の勝海舟は「あの時の鉄舟の役割は俺以上だった」と評しており、鉄舟自身も生涯駿府会談を最大の業績の一つとして語った。

幕末三舟の一人

山岡鉄舟は勝海舟・高橋泥舟と並ぶ「幕末三舟」の一人として称される。三人とも幕末・維新の困難な時期に幕府の側から大局を見据えた行動をとり、明治以降は新政府から重んじられた。中でも鉄舟は駿府会談で歴史を動かしたという具体的功績において他の二人と肩を並べる。武士道精神の体現者として後世に深く敬愛される人物となった所以である。

"主君を他藩に預けることは家臣として承服しがたし。"
山岡鉄舟 駿府会談での発言(伝)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    鉄舟言行録

    全生庵 所蔵

    鉄舟の駿府会談の証言を含む

  • 学術文献

    山岡鉄舟

    山本博文 / 新人物往来社

    駿府会談の実態を実証的に検討

  • 公的所蔵

    全生庵

    東京都台東区谷中

    山岡鉄舟関係資料を所蔵

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第十章 — 関連レポート

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