資料No. SA-0045
侍アーカイブ
勝海舟
Katsu Kaishū
幕府海軍奉行・参議兼海軍卿
第一章 — 人物概要
| 氏名 | 勝海舟 |
|---|---|
| 英名 | Katsu Kaishū |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1823–1899 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 19世紀 |
| 家・役職 | 政治家 |
| 肩書 | 幕府海軍奉行・参議兼海軍卿 |
第二章 — 経歴
1823年、江戸本所亀沢町に旗本の家に生まれる。本名は勝義邦、後に安芳と改めた。若くして蘭学を学び、1855年に長崎海軍伝習所で蘭式海軍術を修めた。
1860年、咸臨丸の艦長として日米修好通商条約批准書交換団を太平洋を渡って米国へ送り届け、日本人として初めて自力で太平洋横断を成し遂げた。1864年に神戸海軍操練所を開設し、坂本龍馬ら諸藩の若者を集めて海軍人材を育成した。1868年3月、江戸城総攻撃の前夜、西郷隆盛と田町薩摩屋敷で会談し、江戸を戦火から救う無血開城を実現した。
明治以降は新政府に出仕し、海軍大輔・参議兼海軍卿を歴任。維新の元勲としても旧幕臣の代表としても両側から尊敬された稀有な人物となった。1899年、東京赤坂氷川町の自宅で没した。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存じ候”
第五章 — 逸話
[A]西郷との江戸城会談
1868年3月14日、薩摩藩田町下屋敷で勝海舟と西郷隆盛が会談した。新政府軍は翌15日の江戸城総攻撃を予定しており、勝は江戸を戦火から守るための条件を提示した。徳川慶喜の助命、徳川家の家名存続、武器の引き渡し、江戸城の明け渡しなど。西郷は朝廷の意向を確認するため攻撃中止を決め、4月11日に江戸城は無血開城された。江戸百万の市民の生命と街の財産を守った歴史的決断だった。
第六章 — 影響と遺産
勝海舟は幕府側の人間でありながら維新の元勲として尊敬され、旧幕臣の代表として明治政府でも顕職を歴任した稀有な人物である。江戸無血開城は西郷隆盛と勝海舟の二人の協議による成果として、明治以降の日本の国民的記憶に刻まれた。神戸海軍操練所で育てた坂本龍馬・陸奥宗光らは明治の中核を担った。晩年の語録『氷川清話』は幕末維新の生き証人による証言として一級史料となっている。海軍創設者としての功績と、政治家・思想家としての影響力は、明治後期から現代まで日本の指導者層に読み継がれている。
第七章 — 主な功績
- [01]長崎海軍伝習所での蘭式海軍術修得(1855)
- [02]咸臨丸艦長として渡米(1860)
- [03]神戸海軍操練所開設(1864)
- [04]江戸無血開城実現(1868)
- [05]氷川清話
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
氷川清話
勝海舟
勝海舟晩年の談話を吉本襄が筆録した語録、幕末維新の一級史料
- 学術文献
勝海舟
松浦玲 / 中央公論新社
勝海舟研究の代表的著作、無血開城の交渉過程を実証的に詳述
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
SA-RPT
江戸無血開城——西郷と勝が百万の街を救った日
1868年3月14日、勝海舟と西郷隆盛が薩摩屋敷で会談した。翌日の江戸城総攻撃を回避するための直接交渉だった。この一日の会談が、江戸百万の市民の生命と街の財産を戦火から守った。
SA-RPT
咸臨丸——勝海舟がいかに日本の近代海軍を作ったか
1860年、勝海舟は咸臨丸の艦長として日本人だけで太平洋を渡った。長崎海軍伝習所での修学、咸臨丸の渡米、神戸海軍操練所の開設。勝海舟の生涯は日本の近代海軍の創設史そのものだった。
SA-RPT
龍馬の師——勝海舟はいかに坂本龍馬を育てたか
1862年、土佐脱藩浪士・坂本龍馬は幕臣・勝海舟を斬りに来た。勝は龍馬と一晩語り合い、龍馬は刀を引いて勝の弟子となった。この一夜の出会いが、四年後の薩長同盟と大政奉還の起点となる。
SA-RPT
駿府会談——山岡鉄舟が単身西郷に乗り込んだ日
1868年3月9日、山岡鉄舟は単身で官軍占領下の駿府に乗り込み、西郷隆盛と会談した。江戸無血開城の枠組みはこの一日の駿府会談で定まり、五日後の勝・西郷会談に繋がった。歴史を動かした無位無官の幕臣の一日。


