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江戸無血開城——西郷と勝が百万の街を救った日
1868年3月14日、勝海舟と西郷隆盛が薩摩屋敷で会談した。翌日の江戸城総攻撃を回避するための直接交渉だった。この一日の会談が、江戸百万の市民の生命と街の財産を戦火から守った。
1868年3月14日(慶応四年三月十四日)、勝海舟と西郷隆盛が江戸薩摩藩田町下屋敷で会談した。新政府軍は翌十五日の江戸城総攻撃を予定しており、勝の側からの直接交渉はこの会談以外に道はなかった。この一日の会談が、江戸百万の市民の生命と街の財産を戦火から救うことになった。
会談に至る経緯
1868年1月の鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍は新政府軍に敗北し、慶喜は二月に江戸へ撤収していた。新政府軍は東海道・東山道・北陸道の三道を進軍し、三月十五日の江戸城総攻撃を決めた。勝海舟は徳川慶喜の意を受けて新政府軍の交渉責任者となり、勘定奉行・山岡鉄舟を駿府に派遣して西郷との事前交渉を行わせた。三月九日の駿府会談で江戸無血開城の枠組みが定まり、五日後の田町会談で最終合意が結ばれた。
勝が示した条件
勝海舟が西郷に示した条件は五項目であった。第一に徳川慶喜の助命と水戸謹慎、第二に徳川家の家名存続(後の徳川家達による静岡藩継承)、第三に江戸城の明け渡し、第四に幕府軍の武器引き渡し、第五に幕府海軍の譲渡。これらの条件は新政府の朝廷側の意向と幕府の生存条件の両方を考慮した妥協案だった。勝は同時に、もし新政府が無理な攻撃を強行するなら江戸を焼き払う準備があると伝えたと氷川清話で語っている。これは交渉カードとしての側面と、勝の本心の側面が混じった発言である。
西郷の判断
西郷隆盛は勝の示した条件を朝廷に上奏すべく、即日江戸城総攻撃の中止を決定した。背景には三月初頭からの英国公使パークスとの交渉もあった。パークスは無辜の市民を巻き込む江戸総攻撃に強い懸念を示し、国際的非難を西郷に警告していた。西郷は朝廷の意向と国際情勢の両方を踏まえ、四月十一日の江戸城正式明け渡しに繋がる決断を下した。
歴史的意義
江戸無血開城は近代日本史上最大の和平交渉の成果とされる。当時の江戸は人口百万を超える世界有数の都市であり、もし総攻撃が実施されていれば焼失と人的損失は計り知れなかった。勝・西郷の二人が短期間に冷静な交渉を成功させたことは、明治以降の日本の国民的記憶に深く刻まれた。両者ともこの交渉以降は政治的に対立する場面もあったが、江戸無血開城における協力の事実は現代まで両者の名声の中核を成している。
"江戸百万の生命財産を一身に引き受け、これを救うが我が責任なり。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
氷川清話
勝海舟
勝海舟自身が江戸無血開城の交渉を語る一級史料
- 学術文献
勝海舟
松浦玲 / 中央公論新社
無血開城の交渉過程を実証的に詳述
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート