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咸臨丸——勝海舟がいかに日本の近代海軍を作ったか

1860年、勝海舟は咸臨丸の艦長として日本人だけで太平洋を渡った。長崎海軍伝習所での修学、咸臨丸の渡米、神戸海軍操練所の開設。勝海舟の生涯は日本の近代海軍の創設史そのものだった。

勝海舟咸臨丸近代海軍

1860年(万延元年)、勝海舟は咸臨丸の艦長として日本人だけで太平洋を渡った。日本人が自力で太平洋を横断した最初の航海であり、近代日本の海軍創設史の象徴的な出来事である。勝海舟の生涯は、長崎海軍伝習所での修学から始まり、咸臨丸の渡米、神戸海軍操練所の開設、明治以降の海軍卿就任まで、近代日本海軍の創設過程そのものだった。

長崎海軍伝習所

1855年(安政二年)、幕府は長崎にオランダ海軍士官を招いて海軍伝習所を開設した。勝海舟は第一期生として入所し、約四年間にわたり蘭式の航海術・測量術・砲術を体系的に学んだ。同期には永井尚志・木村喜毅・荒木済三郎ら、後の幕府海軍の中核となる人材がいた。長崎での学習は単なる軍事技術の修得を超え、西洋の科学・思想・国際情勢の理解にまで及んだ。勝が後年「西洋を理解した最初の幕臣の一人」と評された基礎はここで作られた。

咸臨丸の渡米

1860年、日米修好通商条約批准書交換のため幕府は使節団を米国に派遣した。本隊はアメリカ海軍のポーハタン号で渡航したが、勝海舟率いる咸臨丸はその護衛艦として並行航海した。咸臨丸はオランダ製の三本マスト蒸気帆船で、日本人士官・水夫だけで太平洋を渡った史上初の挑戦だった。約一か月半の航海中、嵐に遭遇し米国海軍士官の助力を借りる場面もあったが、最終的に日本人クルーの操船でサンフランシスコに到達した。同船には福沢諭吉も翻訳官として乗船しており、後の福沢の西洋理解の原点となった。

神戸海軍操練所

1864年(元治元年)、勝海舟は神戸に海軍操練所を開設した。幕府の枠を超えて諸藩の若者を集めて海軍人材を育成するという、当時の発想として画期的な試みだった。集まった若者の中には坂本龍馬・陸奥宗光・伊東祐亨らがいた。この時の勝・龍馬の出会いが、後の薩長同盟・大政奉還の伏線となっていく。神戸海軍操練所は政治的圧力により短命に終わったが、勝が育てた人材ネットワークは明治以降の海軍と外交の基盤となった。

明治海軍卿として

明治維新後の1872年(明治五年)、勝海舟は新政府の海軍大輔に就任し、翌1873年に参議兼海軍卿となった。旧幕臣でありながら明治政府の海軍トップに就任した稀有な例で、勝の海軍知識と人脈が新政府にとって不可欠だったことを示している。勝が幕末の十五年で築いた海軍体系が、明治日本の海軍の起点となった。日清戦争・日露戦争で活躍する明治海軍の祖は、勝海舟であると現代の海軍史研究も評価している。

"海軍は国の力なり、力なき国は人と並ぶ能わず。"
勝海舟 氷川清話(要旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    氷川清話

    勝海舟

    勝海舟自身が海軍創設と咸臨丸の渡米を語る一級史料

  • 学術文献

    勝海舟と幕末海軍

    藤井哲博 / 中央公論新社

    長崎海軍伝習所・咸臨丸・神戸海軍操練所の研究

  • 公的所蔵

    横須賀市自然・人文博物館

    神奈川県横須賀市

    幕末日本海軍関連資料を所蔵

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第十章 — 関連レポート

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