関連レポート -- 公開日: 2026-05-04

船中八策——明治憲法を静かに先取りした一通の覚書

1867年、坂本龍馬は長崎から兵庫への蒸気船「夕顔」の船中で、八ヶ条の覚書を口述した。彼は31歳、脱藩浪士で、暗殺の三か月前。その覚書が近代日本の青写真となった。

幕末明治坂本龍馬

1867年(慶応3年)夏のある夕方、蒸気船「夕顔丸」は長崎から兵庫へ瀬戸内海を東航していた。船内には二人の男。坂本龍馬と海援隊士の長岡謙吉。船は土佐藩への武器輸送を引き受けていた。その武器は数か月以内に徳川幕府を倒す戦争で使われることになる。航行中、龍馬が口述し長岡が筆記した。仕上がった文書は短い八ヶ条だった。後に「船中八策」と題された。

幕府瓦解後の日本がどう統治されるべきかの素描である。それは政府の役職も、正式な権限も持たず、余命三か月の31歳の脱藩浪士によって書かれた。五か月後に発足する明治政府は、その八ヶ条のほぼすべてを採用することになる。

八ヶ条

現代語要約で示せば、概ね次の通りである。第一、政権を朝廷に奉還し、政令はすべて朝廷から出されるべきこと。第二、上下両院の議事所を設け、万機公論に決すべきこと。第三、有材の公卿諸侯および天下の人材を顧問に備え官爵を賜うべきこと。第四、外国との交際は広く公議を採り、新たに至当の規約を立つべきこと。第五、古来の律令を折衷し、新たに無窮の大典を撰定すべきこと。第六、海軍を拡張すべきこと。第七、御親兵を置き、帝都を守衛せしむべきこと。第八、金銀物価宜しく外国と平均の法を設くべきこと。

この八ヶ条は、明治政府のもとで生まれる日本(二院制議会、身分制廃止、条約改正、成文憲法、近代的陸海軍、統一通貨)を驚くほど正確に描写している。1867年時点で衝撃的だったのは、これらの考えのいずれかが新しかったことではない(大半は前十年に何らかの形で改革派が論じていた)むしろ誰かがこれら全てを単一の整合的な文書に組み上げた、ということである。

上にどう届いたか

龍馬には、この種の構想を直接朝廷に提案する政治的立場がなかった。彼が持っていたのは、薩摩・長州という反幕の二大雄藩と、宮廷の穏健派と政治的に連なる土佐藩主・山内容堂との間の、信用された仲介役という位置だった。

船を降りて数週のうちに、龍馬は文書を土佐の重臣・後藤象二郎に渡した。後藤は山内容堂に提示し、容堂はその政治的価値を即座に認めた。容堂は今度はこの八ヶ条を土佐藩から幕府への正式建議の基礎として使った、徳川慶喜に「政権を朝廷に平和裡に返上せよ」と求める1867年10月の建議である。慶喜は受け入れた。1867年11月9日に布告された大政奉還は、264年に及ぶ徳川支配を終わらせた。

蒸気船の船室で龍馬が口述した文書は、四か月足らずのうちに、私的素描から、近代日本を生む政治的移行の運用基盤へと移動していた。

彼が見なかったもの

龍馬は1867年12月10日、京都の近江屋で暗殺された、大政奉還の三週間後、31歳。捜査は今に至るまで完全に受け入れられた答えを出していない。最有力候補は見廻組の佐々木只三郎、新選組、または徳川紀伊家系統の刺客である。政治的反対以外に深刻な動機は提案されていない。

明治政府が彼の提案を実装するのを彼は見なかった。最初の項目(両院議事所)は1868年の五箇条の御誓文に予兆として現れ、太政官・府県会・1890年の帝国議会を経て段階的に実現した。彼の望んだ憲法は1889年2月11日に発布された。彼の提案した統一通貨は1871年に「円」として制定された。彼の構想した条約改正は1894年から1911年にかけて段階的に達成された。構想が完全に実現する頃には、龍馬の没後から半世紀近くが経っていた。

なぜこの覚書が重要か

船中八策はしばしば「日本初の近代憲法的文書」と評される。それは言い過ぎである。憲法ではなく政治綱領であり、提案された制度の大半は以前から論じられていた。決定的に新しかったのはその統合性である。八項目すべてを一体として行わねばならない、どれか一つだけ採用することはできない、という主張がそれである。近代日本は二院制かつ立憲的かつ身分にとらわれず条約改正済みかつ統一通貨である、そのすべてを欠くものは「近代」ではない、という主張。

その意味で、船室の31歳の脱藩浪士が新国家の運用上の起草者だった、と言ってよい。個々の観念はすでに流通していた。それらの「統合」は彼のものであり、そして無傷のまま、船室から京都へ、そして歴史の中へと旅をした。

"やると決めたら、迷わずやる"
坂本龍馬

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