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功山寺挙兵——八十人で藩論を倒幕に変えた夜
1864年12月、長州藩は第一次長州征伐に屈し幕府への恭順を進めていた。下関の功山寺で高杉晋作はわずか八十数名で挙兵し、三月で藩政を奪還、長州を再び倒幕の中心に押し戻した。明治維新の方向を決定づけた夜である。
1864年12月15日(元治元年十一月十七日)夜、下関の曹洞宗・功山寺で高杉晋作は挙兵を宣言した。集まった同志は伊藤博文以下わずか八十数名。長州藩の正規軍と幕府連合軍に対する圧倒的な兵力差の中で、晋作は自藩の政府に対するクーデターを敢行した。
挙兵に至る背景
1864年7月の禁門の変で長州藩は朝敵に指定され、幕府は第一次長州征伐を発令した。長州藩内では椋梨藤太ら俗論派が藩政を握り、幕府への謝罪と尊攘派の処刑で事態の収拾を図った。久坂玄瑞ら奇兵隊系の指導者は次々と処刑され、晋作自身も身を隠していた。藩論は完全に幕府恭順に固まり、長州は倒幕の側から脱落寸前だった。
八十数名の挙兵
12月15日夜、晋作は功山寺で挙兵宣言の演説を行った。残された記録によれば、宣言は短く、五卿(三条実美ら都落ちした朝廷派公家)を擁立して藩政を倒幕に戻すとの内容。即夜、八十数名で下関新地会所を襲撃して武器弾薬を奪取、続いて三田尻の藩軍艦三隻を奪った。1865年1月にかけて伊崎・大田絵堂と転戦して藩内俗論派の主力を撃破、3月までに藩政を完全に奪還した。
三月で藩論を倒幕に転換
1865年4月、長州藩は晋作・桂小五郎(後の木戸孝允)らによる新政府体制を確立し、藩論は再び倒幕に固定された。功山寺挙兵から三月で、長州は朝敵指定下にもかかわらず幕府打倒の準備を再開する。これがなければ翌1866年の四境戦争での幕府軍撃退も、1867年の薩長同盟主導も成立しなかった。明治維新は功山寺の一夜から始まったという評価が、後世の幕末史研究で繰り返し示される所以である。
"今日の事、断じて行ふべし"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
高杉晋作史料
山口県文書館 所蔵
功山寺挙兵前後の晋作自筆書簡を含む
- 学術文献
高杉晋作
一坂太郎 / 文春新書
功山寺挙兵を晋作研究の中核として詳述
- 公的所蔵
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