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黒船密航未遂——松陰はなぜペリー艦に乗り込もうとしたのか
1854年3月、再来航したペリー艦隊が下田に停泊する夜、吉田松陰は弟子と共に小舟を漕ぎ出して米艦に近づいた。乗船は拒絶され自首して投獄された。命懸けで何を求めていたのか。
1854年3月27日(嘉永七年三月二十七日)夜、伊豆下田の港に停泊するペリー艦隊の主力艦ポーハタン号に、二人の日本人が小舟で接近した。一人は二十四歳の長州藩士・吉田松陰、もう一人は弟子の足軽・金子重之輔。二人は手紙を持参し、米国への密航を願い出た。米側は丁重に拒絶し、二人は岸に戻った後に自首、投獄された。
松陰の動機
密航の動機について松陰自身が後年書き残した記録によると、目的は「西洋の文明を実地に見て知る」ことだった。1853年6月のペリー初来航を松陰は江戸で目撃し、西洋技術と国防の現実的格差を直感した。書物で学ぶのではなく西洋の中に身を置いて学ぶ以外に対処は不可能、というのが密航決断の論理だった。当時の鎖国令下で海外渡航は死罪に該当し、本人もそれを承知の上での行動だった。
なぜペリーは拒絶したか
ペリー側の対応は外交的に慎重だった。日米和親条約の調印交渉が進行中で、日本人乗組員を密かに連れ帰れば条約の信頼性を損なう。ペリーは松陰の願いに同情を示しつつも、日本側に通報する形を取らず、二人を岸に戻して見送った。松陰自身の自首によって事件は表沙汰となり、幕府は形式上の処分として江戸送りを命じた。
投獄が松陰を変えた
1855年に萩へ送還されて野山獄に収監された松陰は、獄中で囚人たちに講義を始めた。これが後の松下村塾の原型となる。死罪を覚悟した行動の結果として、海外に出る代わりに国内で人材を育てる方針へ転換した。1857年に叔父・玉木文之進から松下村塾を継承するまでの二年半の野山獄期間は、松陰の思想が「外を見る」から「内を育てる」へと舵を切った決定的時期である。下田での密航失敗が、結果的に松下村塾を生み、明治維新の人材を生んだという因果関係は、近年の研究で改めて評価されている。
"海外の事情を実地に視察せざれば、国家の方向を定めること能はず"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吉田松陰書簡集
吉田松陰
下田密航前後の松陰自筆書状を含む
- 学術文献
吉田松陰
田中彰 / 筑摩書房
近世から近代への転換期における松陰の位置を論じた評伝
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート