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奇兵隊——農兵連合が幕府軍を破った日

1863年に高杉晋作が下関で結成した奇兵隊は、武士階級に閉じない武装組織として日本初の近代的軍隊の原型だった。三年後の四境戦争で、この身分を問わない軍隊は幕府の正規軍を撃退した。

奇兵隊晋作四境戦争

1863年6月、下関で結成された奇兵隊は、明治日本の徴兵制軍隊の直接の前身である。発案者は高杉晋作。設立時の隊員数は約八十名で、武士・農民・町人を身分を問わず受け入れた。奇兵という名称は正規の藩兵に対する非正規という意味で、当時の身分制度下では極めて異例の組織形態だった。

なぜ晋作はこの組織を作ったか

1863年5月、長州藩は下関で米英仏蘭の艦船を砲撃し、外国艦隊の報復攻撃を受けて惨敗した。武士の正規軍だけでは欧米列強に対抗できないことが実証された後、晋作は身分制度に縛られない実戦的軍隊の必要性を確信した。上海視察(1862)で清国の半植民地化を目撃した経験と、松下村塾で学んだ思想とが、奇兵隊という具体的な組織形態として結晶した。藩主毛利敬親はこれを認可し、長州藩公認の準軍事組織として奇兵隊は活動を開始した。

1866年四境戦争での実証

奇兵隊の実戦能力が証明されたのは、1866年6月から9月にかけての第二次長州征伐(四境戦争)である。幕府は十五万の正規軍を四方向から長州に投入したが、奇兵隊を含む長州諸隊は約三千五百で迎撃した。戦力差は四十倍以上。にもかかわらず、芸州口・石州口・大島口・小倉口の四つの戦線全てで幕府軍は撃退され、九月までに事実上の停戦となった。武士による正規軍と、身分混合の近代的編成軍との能力差が、戦場で初めて実証された出来事である。

明治徴兵制への直接の連続性

1873年の明治新政府による徴兵令は、形式的には西洋諸国の徴兵制度をモデルとしている。しかし運用思想の直接の系譜は奇兵隊にある。山県有朋(松下村塾門下、奇兵隊参加経験あり)が明治陸軍の創設責任者となり、奇兵隊の編成原理を国家レベルに拡張した。武士階級が独占していた軍事力を国民全体に開放するという思想は、晋作の1863年の決断が起点であり、明治日本の国家構造を根本的に規定することになった。

"有志の士は身分を問はず"
奇兵隊規約(要旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    高杉晋作史料

    山口県文書館 所蔵

    奇兵隊結成前後の晋作自筆書簡を含む

  • 学術文献

    高杉晋作

    一坂太郎 / 文春新書

    奇兵隊の組織論を含む晋作研究の代表作

  • 公的所蔵

    東行庵

    山口県下関市

    晋作菩提寺、奇兵隊関係資料を所蔵

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第十章 — 関連レポート

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