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『新皇』宣言——940年正月、将門はなぜ天皇を名乗ったか
940年正月、下総国の将門は関東八か国を制圧し、自ら『新皇』を称した。京都の朝廷から独立した関東独自の政権樹立宣言は、日本史上初の『天皇』以外の称号による国家樹立の試みだった。
940年正月(天慶三年正月)、下総国石井(現在の茨城県坂東市周辺)。前年11月から関東諸国府を襲撃し続けていた平将門は、この日、自ら『新皇』を称した。京都の朱雀天皇に代わる関東独自の天皇として、独立政権の樹立を宣言する挙だった。
将門三十八歳前後、乱の勃発からわずか二か月での宣言である。
宣言の背景
将門の関東制圧の直接のきっかけは、平氏一族内の所領争いだった。935年に叔父・平国香を討ち、以後関東の平氏諸家との内紛が拡大。939年11月には常陸国司との対立から常陸国府を襲撃、続いて下野・上野の国府も制圧、関東八か国のほぼ全域を勢力下に置いた。
中央政府に対する反乱の性格が、地方の私戦から国家に対する反乱へと転換した瞬間だった。
『新皇』という称号の意味
『新皇』は文字通り『新しい天皇』の意である。京都の天皇と並立する第二の天皇を称する挙は、日本史上初めての試みだった。将門記の記述によれば、将門は関東八か国の国司を独自に任命し、京都の朝廷から完全に独立した統治機構の樹立を目指したとされる。
中央貴族の朝廷体制そのものへの挑戦であり、後世の武家政権の遥かな先駆と評価される。
宣言からわずか二か月の終焉
『新皇』宣言からわずか二か月後の940年2月14日、将門は下野守・藤原秀郷と平貞盛の率いる官軍に敗れ、下総国猿島郡で流れ矢を受けて戦死した。関東独立政権はほんの数か月で終わった。
しかし、中央政府の統制の外で武力を基盤に独立した政治勢力を樹立するという構想そのものは、二百五十年後の源頼朝による鎌倉幕府樹立まで、日本の武家政権思想の前史として生き続けることになる。
"将門、自ら新皇を称す。関東八か国、独立の政を布く。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
将門記
承平天慶の乱に近い時期に成立した軍記物、将門の乱の最重要一次寄り史料
- 学術文献
平将門と天慶の乱
川尻秋生 / 講談社選書メチエ
『新皇』宣言の政治的意味を実証的に検討
- 公的所蔵
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