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関ヶ原後の隠棲——誾千代の最後の三年
1600年関ヶ原、立花宗茂は西軍に付き改易となる。誾千代は宗茂と別行動を取り、肥後国腹赤に隠棲、1602年に三十四歳で没した。夫婦別離の最期を辿る。
立花誾千代関ヶ原隠棲
1600年10月21日、関ヶ原。立花宗茂は西軍として大坂に留まり、東軍勝利後、徳川家康に改易を命じられた。柳川十三万石は没収され、宗茂は流浪の身となった。この時、誾千代は三十二歳。
肥後国腹赤への隠棲
誾千代は宗茂と別行動を取り、肥後国腹赤(現在の熊本県玉名郡)に隠棲した。腹赤は加藤清正の領内で、清正は誾千代の亡父・道雪への敬意から、彼女の隠棲を許したとされる。
宗茂は関ヶ原後、京都・大坂を経て加藤清正のもとに身を寄せることになる。
1602年の死
誾千代は1602年(慶長七年)10月に腹赤で没した。享年三十四。死因は病と伝えられる。福岡県柳川市の良清寺には、後年宗茂が柳川藩再興を果たした後、誾千代の遺骨を移して建立した墓所が現存する。
宗茂の柳川再興
1603年以降、宗茂は徳川に許されて江戸に召し出され、1620年に旧領・柳川藩十万九千石として再興された。この時、誾千代は既にこの世にいない。宗茂は生涯正妻の立て替えをせず、誾千代を立花家中興の起点として尊重し続けた。
誾千代と宗茂の関係は、戦国末期の武家における配偶者関係の特殊解だった。関ヶ原後の別離は、彼女が家督継承者としての独立を貫いた結果とも解釈できる。柳川市の良清寺には現在も誾千代の墓所が保たれ、立花家中興の起点として位置付けられている。
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
立花家譜
立花家伝来
関ヶ原後の誾千代の隠棲を伝える主要典拠
- 学術文献
立花宗茂
中野等 / 吉川弘文館(人物叢書)
関ヶ原後の立花家の動向を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート
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