資料No. SA-0025
侍アーカイブ
足利尊氏
Ashikaga Takauji
室町幕府初代将軍

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 足利尊氏 |
|---|---|
| 英名 | Ashikaga Takauji |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1305–1358 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 14世紀 |
| 家・役職 | 将軍 |
| 肩書 | 室町幕府初代将軍 |
第二章 — 経歴
1305年、源氏の足利支族に生まれた。1333年まで北条家の重臣であったが、後醍醐天皇の鎌倉幕府打倒の挙兵に応じ、自身の主家に背いた。同年5月、後醍醐方として京都を制圧、北条家百四十八年の支配を終わらせた。三年と経たぬうちに、後醍醐との同盟は崩壊した。
新生の朝廷政府が尊氏に期待していた制度的な武家の役割を与えなかったからである。1336年、尊氏は朝廷に進軍した。湊川で勤皇派の楠木正成を破り、後醍醐を京から追い、対立する天皇を擁立した。これにより南北朝時代が始まり、日本は六十年間、対立する二人の天皇と二つの皇統を抱えることになる。
尊氏は1338年に新たな室町幕府の初代将軍となり、1358年の没年まで統治した。彼の決定が生んだ不安定さ、つまり対立する二朝廷と幕府自身の地方統治構造の双方は、一世紀後の応仁の乱に至る慢性的な対立を準備し、戦国を生んだ。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“我は戦を起こし、また別の戦を起こしたが、いずれの時も終わらせ得なかった”
第五章 — 逸話
[A]二つの朝廷
1336年に尊氏が対立天皇を擁立したことで、日本は二つの並行する皇室体系に分裂した。京都の北朝は彼の与する側、最初は吉野の後醍醐の血統が南朝。両朝が独立に勅書を発し、官位と所領を授け、別々の皇暦を維持した。
分裂が正式に終わるのは1392年、尊氏の死から三十四年後である。
第六章 — 影響と遺産
尊氏は日本史で最も道徳的に複雑な主要人物の一人である。北条の後援者を裏切り、後醍醐を裏切り、皇統を分裂させ、地方代官の力に対し脆弱な幕府を作った結果、室町末期の戦国を準備した。現代日本の評価は分かれる。戦前の歴史記述は後醍醐に逆らった反逆者として彼を扱った。
戦後の研究者は、武家政権が朝廷の枠組みを既に追い越していたと認識した実務的政治家として復権させた。
第七章 — 主な功績
- [01]鎌倉攻略(1333)
- [02]湊川の戦い(1336)
- [03]室町幕府樹立(1338)
- [04]南北朝時代の発端
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
梅松論
南北朝期成立、足利方視点による同時代軍記
- 学術文献
足利尊氏
亀田俊和 / KADOKAWA
南北朝期研究の最新成果を踏まえた評伝
- 公的所蔵
- 学術文献
足利尊氏
森茂暁 / 角川選書
南北朝研究の第一人者による尊氏の総合的評伝
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
SA-RPT
二人の天皇——足利尊氏が日本を六十年分裂させた決定
1336年、自身の幕府を正統化するため、足利尊氏は京都に対立天皇を擁立した。元の天皇は吉野に逃げた。日本はその後五十六年間、対立する二つの皇統を抱えた。その分裂の政治的構造が、戦国に至る国の形を決めた。
SA-RPT
明徳の和約——義満はいかに五十年の分裂を終わらせたか
1392年閏10月5日、京都。南朝の後亀山天皇が三種の神器を後小松天皇に譲り、五十年以上続いた南北朝の分裂は終わった。義満三十五歳、権力の絶頂期の外交決着を辿る。
SA-RPT
稲村ヶ崎——1333年、義貞が海に太刀を投じて鎌倉を落とした
1333年5月、新田義貞は鎌倉の外れ稲村ヶ崎で海へ黄金の太刀を投じ、潮の引いた干潟を駆けて鎌倉へ攻め入った。百四十年続いた鎌倉幕府が、一人の不遇な御家人の挙兵から半月あまりで滅んだ。
SA-RPT
湊川の敗走——1336年、義貞は盟友・正成を救えなかった
1336年5月、摂津湊川。九州から巻き返した足利尊氏の大軍を前に、新田義貞と楠木正成は敗れた。正成は討死し、義貞は敗走して生き延びた。共に建武政権を支えた二人の、明暗を分けた一日だった。



