資料No. SA-0023
侍アーカイブ
源頼朝
Minamoto no Yoritomo
鎌倉幕府初代将軍

第一章 — 人物概要
| 氏名 | 源頼朝 |
|---|---|
| 英名 | Minamoto no Yoritomo |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1147–1199 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 12世紀 |
| 家・役職 | 将軍 |
| 肩書 | 鎌倉幕府初代将軍 |
第二章 — 経歴
1147年、河内源氏の棟梁・源義朝の三男として生まれた。十四歳の時、平治の乱で父が敗死し、頼朝自身は身上の嘆願により助命されて伊豆国に流された。北条家の監視下に二十年を流人として過ごし、監視役の娘・北条政子を妻に迎えた。1180年、源氏の二度目の挙兵を主導した。
今度は成功した。1185年、異母弟・源義経の率いる軍が壇ノ浦で平家を滅ぼした。1192年、朝廷から征夷大将軍の宣下を受け、武士として国家的軍事権威を初めて公式に保持した者となった。彼が築いた鎌倉幕府は、京都ではなく鎌倉から武家政権を運営する分権的体制であり、形を変えながら六世紀半、1868年の明治維新まで続いた。
1199年、落馬によって没した。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“武士たるもの主君に対しては月の彼方まで従うべし”
第五章 — 逸話
[A]弟を死なせた男
頼朝の最も結果的な個人決断は、源平合戦を勝利に導いた異母弟・義経の追放であった。1189年、義経は奥州・衣川館で弁慶と共に死ぬ。頼朝自身が仕組んだ流れの結末である。自身の政治的統制下に置けない人気の軍事英雄を、頼朝は許容できなかった。
日本武家史における冷徹な政治計算の出発点となる行為である。
第六章 — 影響と遺産
頼朝は武家政権を恒常的制度として発明した。彼が築いた構造、すなわち頂点に将軍、地方に守護と地頭を置き、すべての家臣を朝廷ではなく幕府に忠誠させる仕組みは、その後676年間にわたる日本の運用基盤となった。徳川を含むあらゆる後の幕府が、彼の根本設計を踏襲した。
第七章 — 主な功績
- [01]鎌倉幕府の樹立(1185)
- [02]征夷大将軍宣下(1192)
- [03]全国の守護・地頭制
- [04]源平合戦における総司令
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吾妻鏡
鎌倉幕府編纂
鎌倉幕府の公式史、頼朝の事績を編年体で記録
- 学術文献
源頼朝
元木泰雄 / 中公新書
中世史研究の第一人者による標準的評伝
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
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1192年に源頼朝が将軍の称号を取った時、彼は国家権力を持った最初の武士ではなかった。彼が初めてだったのは、その職を恒常的なものにしたことである。1180年から1199年までの彼の選択が、その後676年の日本の運用基盤を定めた。
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