資料No. SA-0051
侍アーカイブ
源義経
Minamoto no Yoshitsune
検非違使少尉・伊予守
第一章 — 人物概要
| 氏名 | 源義経 |
|---|---|
| 英名 | Minamoto no Yoshitsune |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1159–1189 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 12世紀 |
| 家・役職 | 侍 |
| 肩書 | 検非違使少尉・伊予守 |
第二章 — 経歴
1159年(平治元年)、源義朝の九男として京都に生まれる。父・義朝は翌年の平治の乱で敗死し、常盤御前は幼子三人を連れて雪の中を逃げた。という描写は平家物語が伝える情景である。幼名は牛若丸。鞍馬寺に預けられ、十六歳頃に出奔して奥州の藤原秀衡を頼った。
兄・頼朝の1180年挙兵に馳せ参じ、以後源氏軍の実戦指揮官として一ノ谷、屋島、壇ノ浦で平家を追い詰めた。だが壇ノ浦の後、後白河法皇から独断で官位を得たことが頼朝の逆鱗に触れる。追討命令を受けて再び奥州へ逃れ、1189年、藤原泰衡の裏切りにより衣川館で自害した。
享年三十一。悲劇的最期は「判官贔屓」という言葉を生み、能・歌舞伎・小説の主人公として日本文化史に刻まれた。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“われここに死せずんば、平氏を滅ぼす能はず。”
第五章 — 逸話
[A]鵯越の逆落とし——伝承と史実
一ノ谷の背後、鉄拐山の断崖を七十騎で駆け下ったという平家物語の描写は、日本軍記文学で最も有名な戦場面の一つとなった。ただし同時代史料の吾妻鏡はこの場面をごく簡潔にしか記していない。近代の軍事史研究者たちは、実際に義経が下ったのは断崖ではなく尾根伝いの急坂ではないかと推測してきた。
義経が奇襲的な機動で一ノ谷を突破したこと自体は複数史料で裏付けられる。
第六章 — 影響と遺産
戦場での天才と、政治的挫折の対比が義経像の核である。頼朝との対立は、鎌倉政権の官位統制システムに対する違反という制度史的意味を持つ事件だったが、後世には「判官贔屓」という同情の物語に変換された。能・歌舞伎・浄瑠璃・小説から現代の大河ドラマまで、日本文化史における主人公の座を四百年以上失っていない。
海外でも Yoshitsune の名は Genpei War の中核人物として広く知られる。
第七章 — 主な功績
- [01]一ノ谷合戦での勝利(1184)
- [02]屋島合戦での勝利(1184)
- [03]壇ノ浦合戦での平家滅亡(1185)
- [04]検非違使・伊予守就任
- [05]源平合戦の主要指揮官として源氏勝利を確定
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吾妻鏡
鎌倉幕府編纂
鎌倉幕府の公式編纂史書、義経の事績を年代順に記録
- 学術文献
源義経
元木泰雄 / 吉川弘文館(人物叢書)
近年の源義経研究の代表的伝記
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
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