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宇治川、そして粟津——義仲はなぜ入京から半年で朝敵となったか
1183年7月、義仲は京都に入り征夷大将軍に任じられた。だが半年後には朝敵として鎌倉軍に討たれる。都で何が起きたのか。上洛から粟津の死までの、半年の失政の記録。
木曾義仲宇治川粟津
1183年7月28日、義仲は京都に入った。平家一門を都から追い落とし、後白河法皇から征夷大将軍に任じられた。旭将軍の呼称はここに由来する。二十九歳。だが半年後の1184年1月20日、彼は近江国粟津(現在の滋賀県大津市)で戦死する。
兵糧強奪と京都の怒り
上洛直後の義仲軍は、京都住民の歓迎を受けた。しかし数か月のうちに、木曾軍による兵糧の強引な徴発、住民との衝突、治安の悪化が続いた。都は既に飢饉に襲われており、義仲軍の徴発は住民の生存を直接圧迫した。
半年もたたぬうちに、京都の民の怒りは義仲に向いた。
法住寺合戦。後白河法皇との決裂
1183年11月、義仲は後白河法皇の法住寺御所を襲撃した。「法住寺合戦」。法皇は幽閉された。武家が院を武力で監禁したことで、義仲は朝廷の政治的支持を完全に失った。
同時に、鎌倉の頼朝に「朝敵・義仲追討」の名分を与えた。
宇治川と粟津の朝
1184年正月、頼朝が派遣した源範頼・義経の軍が京都に迫った。義仲は宇治川で範頼軍を迎え撃ったが、義経軍が上流から渡河して側面を突いた。義仲軍は崩れ、義仲は近江へ落ちる途中、粟津で戦死した。
三十一歳。
平家物語は、義仲の最期に愛妾の女武者・巴御前(本サイト id 28)を伴ったと描く。「巴、女なりとも一人当千の兵。汝は疾く落ちよ」。巴を落ちさせ、義仲は少数の郎党とともに矢を受けて倒れた。
平家追討の最初の勝者は、勝利から半年で、勝利を作った同じ都で滅んだ。
"巴、女なりとも一人当千の兵。汝は疾く落ちよ。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吾妻鏡
鎌倉幕府編纂
義仲の在京・法住寺合戦・粟津の死を年代順に記録
- 学術文献
源平の争乱
上横手雅敬 / 集英社
義仲の失政と滅亡の政治構造を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート
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