資料No. SA-0053
侍アーカイブ
木曾義仲
Kiso Yoshinaka
征夷大将軍・伊予守
第一章 — 人物概要
| 氏名 | 木曾義仲 |
|---|---|
| 英名 | Kiso Yoshinaka |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1154–1184 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 12世紀 |
| 家・役職 | 侍 |
| 肩書 | 征夷大将軍・伊予守 |
第二章 — 経歴
1154年(久寿元年)、源義賢の次男として武蔵国大蔵館(現在の埼玉県嵐山町)に生まれる。翌1155年、父は源義朝の子・悪源太義平によって討たれた。幼い駒王丸は乳母の夫・中原兼遠に匿われ、信濃国木曾谷(現在の長野県木曾町)で育つ。「木曾義仲」の呼称はここから来る。
1180年、以仁王の令旨に応じて信濃で挙兵。1183年5月の倶利伽羅峠の戦いで平維盛の大軍を破り、7月に上洛。平家一門を都から追い落とし、後白河法皇から征夷大将軍に任じられた。だが在京中の兵糧徴発と法住寺合戦による法皇御所襲撃で朝廷の信頼を失う。
1184年正月、鎌倉から派遣された頼朝軍(範頼・義経)に宇治川で敗れ、粟津で戦死。享年三十一。愛妾・巴御前(本サイト id 28)を伴った最期は平家物語で悲劇的に描かれる。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“巴、女なりとも一人当千の兵。汝は疾く落ちよ。”
第五章 — 逸話
[A]「火牛の計」——伝承の重み
1183年5月11日の倶利伽羅峠で、義仲が「牛の角に松明を括りつけて平家軍陣中に放った」とする火牛の計は、平家物語が描く劇的場面である。ただし同時代の吾妻鏡には具体的な火牛の記述はなく、平家物語の文学的表現が独り歩きした可能性が高い。
義仲軍が夜襲を仕掛け、狭い峠で平家軍を混乱させた戦術自体は複数史料で裏付けられる。
第六章 — 影響と遺産
頼朝より先に平家追討の実戦的勝利を挙げた最初の源氏武将。しかし京都での失政により後白河法皇の信頼を失い、頼朝の追討によって滅んだ。「勝利の後の失政」の代表例として歴史に刻まれる。滋賀県大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)は義仲の墓所として現存し、江戸期の俳人・松尾芭蕉がここに自らの墓を作らせた事実も知られる。
第七章 — 主な功績
- [01]信濃での挙兵(1180)
- [02]倶利伽羅峠の戦いでの勝利(1183)
- [03]京都上洛と平家一門の京都追放(1183)
- [04]征夷大将軍就任(1183)
- [05]旭将軍として源平合戦初期の源氏勝利
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吾妻鏡
鎌倉幕府編纂
義仲の事績を鎌倉政権側の視点から記録
- 学術文献
源平の争乱
上横手雅敬 / 集英社
源平合戦全体の中に義仲を位置づける代表的研究
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
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1155年、二歳の駒王丸は父を失った。信濃国木曾谷で育った少年が、二十六歳で以仁王の令旨に応じて挙兵する。平家追討戦の最初の実戦的勝者となる男の、前史を辿る。
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