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木曾の山中から——義仲は誰の子として育ったか
1155年、二歳の駒王丸は父を失った。信濃国木曾谷で育った少年が、二十六歳で以仁王の令旨に応じて挙兵する。平家追討戦の最初の実戦的勝者となる男の、前史を辿る。
木曾義仲信濃以仁王の令旨
1155年、武蔵国大蔵館(現在の埼玉県嵐山町)で、源義賢が討たれた。討ち手は甥・源義平(頼朝の兄)。二歳の遺児・駒王丸は、乳母の夫・中原兼遠(なかはら の かねとお)に匿われ、信濃国木曾谷(現在の長野県木曾町)へと逃された。
以後、彼は「木曾義仲」として育つ。
木曾の環境
木曾は信濃の南西、山深い谷で、当時としても中央から隔絶された地であった。中原氏は在地の有力者で、義仲は兼遠の実子たち(樋口兼光、今井兼平、そして巴御前。本サイト id 28)と兄弟同然に育った。
この乳兄弟たちが後の義仲軍の中核を成す。
以仁王の令旨を受けて
1180年、以仁王の令旨は木曾にも届いた。頼朝が伊豆で挙兵したのと同じ夏、義仲も信濃で兵を挙げる。二十六歳。当初の兵力は数百と伝わるが、地元武士団を糾合して急速に膨らんだ。
北陸への進撃
1181年、越後守護の城助職を破って北陸へ進出。1182年から1183年にかけて、義仲軍は越前・加賀を制圧し、平家の北陸方面軍を追い詰めた。以仁王の令旨からわずか三年で、義仲は平家追討の主戦力の一つとなっていた。
頼朝は東国で足場を固めており、都から見れば、平家追討の実戦部隊として先に姿を現したのは義仲だった。1183年5月、両軍は越中と加賀の国境・倶利伽羅峠で激突する。
"義仲、信濃に兵を起こす。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吾妻鏡
鎌倉幕府編纂
義仲の挙兵と北陸進撃を鎌倉政権側から記録
- 学術文献
源平の争乱
上横手雅敬 / 集英社
義仲の少年期から挙兵までを源平合戦の中に位置づける
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート
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