資料No. SA-0052
侍アーカイブ
平清盛
Taira no Kiyomori
太政大臣・平家棟梁
第一章 — 人物概要
| 氏名 | 平清盛 |
|---|---|
| 英名 | Taira no Kiyomori |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1118–1181 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 12世紀 |
| 家・役職 | 侍 |
| 肩書 | 太政大臣・平家棟梁 |
第二章 — 経歴
1118年(元永元年)、伊勢平氏・平忠盛の長男として生まれる。1153年に父の死により家督を継承。1156年の保元の乱、1159年の平治の乱で源義朝を破り、平家の武家における優位を確立した。1167年、五十歳。武家として初めて太政大臣に就任する。
太政大臣は摂関家か皇族に限られてきた最高官職で、武家の任官は前例がなかった。以後、娘・徳子を高倉天皇の中宮に入れ、外孫の安徳天皇即位(1180)まで実現、平家一門は栄華の頂点に立つ。だが同年、以仁王の令旨をきっかけに全国で反平家の挙兵が起きる。
清盛は1181年閏2月、熱病により京都で急死した。享年六十四。清盛の死により平家の求心力は失われ、1185年壇ノ浦での滅亡へと繋がる。武家政権の先駆者として、後の鎌倉幕府成立への布石となった。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“此一門にあらざらん人は皆人非人なるべし。”
第五章 — 逸話
[A]白河法皇落胤説の真偽
清盛の実父を平忠盛ではなく白河法皇とする落胤説は、平家物語などの中世軍記に見え、異例の昇進を説明する伝承として広まった。ただし同時代の一次史料(玉葉、山槐記など)にはこの伝承は登場せず、後世の物語化の中で形成された可能性が高い。
忠盛の妻が白河院近臣だった点は史実で、その家系背景が清盛の昇進を支えたこと自体は認められる。
第六章 — 影響と遺産
武家が国政の頂点に立った先例として、日本の政治史における転換点。清盛の海外貿易への積極的関与(日宋貿易、大輪田泊の整備)は、対外関係史でも重要な業績である。平家物語の主人公として、能・歌舞伎・浄瑠璃・大河ドラマまで千年近く描かれ続ける。同時代人の九条兼実の日記『玉葉』が、清盛期政治の実像を伝える一次史料として現存する。
第七章 — 主な功績
- [01]保元の乱・平治の乱の勝利(1156, 1159)
- [02]太政大臣就任(1167)
- [03]日宋貿易の拡大と大輪田泊の整備
- [04]外孫・安徳天皇即位(1180)
- [05]武家政権の政治的先駆
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
玉葉
九条兼実
平安末期の摂関家出身公家による日記、清盛期の政治動向を伝える同時代一次史料
- 学術文献
平清盛 福原の夢
高橋昌明 / 講談社選書メチエ
現代の平清盛研究の代表的著作、政治史・貿易史の両面から実像を検討
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
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