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武家の太政大臣——1167年、清盛は何を成し遂げたか
1167年、平清盛は太政大臣に就任した。摂関家か皇族に限られてきた最高官職への武家の任官は、日本の政治構造の前例なき転換だった。就任の意味と、平家一門の栄華の実相を読む。
平清盛太政大臣平家一門
1167年2月11日、京都。平清盛は太政大臣に任じられた。五十歳。この日、日本の律令制度の頂点に、武家出身者が初めて立った。
太政大臣という官職
太政大臣は律令制における最高の官職で、代々摂関家か皇族に限られてきた。武家の任官は前例がない。就任期間はわずか三か月余りで清盛は辞任するが、これは形式で、以後も「入道相国」として実質的な権力を保持し続けた。
娘・徳子と外孫の天皇
清盛の権力設計の核心は、婚姻と外戚政治にあった。娘・徳子(後の建礼門院)を高倉天皇の中宮に入れ、その間に生まれた孫が1180年に安徳天皇として即位する。天皇の外祖父としての清盛は、藤原摂関家が長年独占してきた地位を武家として奪取した最初の人物となった。
『平家にあらずんば人にあらず』
平時忠が「此一門にあらざらん人は皆人非人なるべし」と語ったと平家物語は伝える。平家一門で公卿の位に付いた者、十六名。武家出身の一族としては前例のない規模である。
清盛の兄弟・子・孫が、京都の官職の相当部分を占めた。この寡占が、以仁王の令旨(1180)で全国的な反平家の挙兵を生む土壌となる。
太政大臣就任から十三年後、清盛は京都の熱風の中で死ぬ。武家政権としての平家は一代で完成し、一代で崩れた。だが、武家が国家の頂点に立ちうるという先例そのものは、頼朝の鎌倉幕府、以後の武家政権の系譜に、消えることなく引き継がれた。
"此一門にあらざらん人は皆人非人なるべし。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
玉葉
九条兼実
太政大臣任官前後の政治動向を伝える一次史料
- 学術文献
平清盛 福原の夢
高橋昌明 / 講談社選書メチエ
清盛の太政大臣就任と外戚政治を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート
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