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以仁王の令旨——1180年、平家の栄華はなぜ崩れたか
1180年5月、後白河法皇の子・以仁王が発した令旨は、諸国の源氏に平家追討を命じるものだった。全国的な反平家の挙兵、南都焼き討ち、福原遷都の失敗、そして清盛の熱病死。一年半で世界が変わる。
1180年5月、京都から一枚の文書が全国に発せられた。以仁王(もちひとおう)の令旨。後白河法皇の子・以仁王が、諸国の源氏に平家追討を命じる文書である。以仁王自身は同年5月に宇治で戦死する。
しかし文書は、伊豆に流されていた源頼朝、信濃の源義仲、その他の各地の源氏の手に届いていた。
頼朝と義仲の挙兵
1180年8月、頼朝が伊豆で挙兵。同年9月、義仲が信濃で挙兵。数か月のうちに、東国と信越で反平家の武装が広がった。清盛が四十年かけて作り上げた統治構造は、突然、各地からの内乱に晒される。
南都焼き討ちと福原遷都
清盛の対応は苛烈だった。1180年12月、平重衡率いる平家軍が、反平家の姿勢を見せていた東大寺・興福寺を焼いた。「南都焼き討ち」。大仏殿を含む大寺院群が炎上した事件は、朝廷と貴族社会の平家離反を決定的にした。
同年、清盛は都を京都から福原(現在の神戸市)へ移したが、貴族と朝廷の反発により、半年後に京都へ戻さざるを得なかった。
熱病死
1181年閏2月4日、清盛は京都で急死した。熱病、と平家物語は伝える。享年六十四。頭が熱くなり、水を浴びても湯になったという劇的描写は、後世の物語化である可能性が高いが、急性の高熱症状で亡くなったこと自体は複数史料で裏付けられる。
清盛の死により、平家の求心力は失われた。以後の平家は、後継の宗盛のもとで守勢に回り、四年後の壇ノ浦で滅亡する。清盛が武家として初めて国家の頂点に立った瞬間から、一族が海に沈むまでの距離は、一代。
五十年に満たなかった。
"清盛、熱病により俄に薨ず。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
玉葉
九条兼実
以仁王の令旨・南都焼き討ち・清盛の死を同時代から記録
- 学術文献
平清盛 福原の夢
高橋昌明 / 講談社選書メチエ
治承・寿永の乱の政治構造を実証的に検討
- 公的所蔵
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