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熊野詣の帰路——平治の乱と清盛の一夜

1160年正月、京都で藤原信頼と源義朝が挙兵した時、平清盛は熊野詣の途中にあった。京都に本拠を残した清盛の四十二歳と、源義朝の三十七歳。この一戦で日本の政治史は決まる。

平清盛平治の乱源義朝

1160年正月九日、京都は炎上した。藤原信頼と源義朝の軍が三条殿を焼き、後白河上皇と二条天皇を軟禁した。平治の乱の勃発である。時に平清盛は、熊野詣の途中、紀伊国田辺(現在の和歌山県田辺市)にいた。

四十二歳。

六波羅への急行

京都に残していた家族、六波羅の本拠、そして手薄な平家の兵力。清盛はすべてを、都に残していた。田辺で乱の一報を受けた清盛の速度が、以後の日本の政治史を決めた。九日夜には紀伊から北上を開始し、二十日ほどで京都へ戻る。

源義朝との決着

源義朝は、藤原信頼と結んで京都を制圧していた。しかし清盛の帰還後、二条天皇は密かに六波羅へ移された。天皇の身柄を清盛が確保した時点で、勝負は決していた。信頼は逮捕され処刑、義朝は東国への逃亡を試みたが尾張で家人に殺された。

三十七歳。

源氏の子ら

義朝には数人の息子がいた。長男・義平は捕らえられて処刑、次男・朝長は逃亡中に病死、三男・頼朝は伊豆へ流罪、そして数え二歳の九男・牛若は、母・常盤御前とともに寺に預けられた。

二十年後に平家を滅ぼすことになるこの兄弟の運命は、平治の乱の後始末で決まった。

平治の乱の勝利で、清盛は武家最上位の地位を確立した。以後七年で太政大臣に就任し、平家一門は栄華の頂点に達する。同時に、この時彼が生かした二人。頼朝と義経。が、二十年後の平家滅亡の主役となる。

"清盛、田辺より駆け帰る。"
玉葉(趣旨)

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    玉葉

    九条兼実

    平安末期の摂関家出身公家による日記、平治の乱前後の政治動向を伝える

  • 学術文献

    平清盛 福原の夢

    高橋昌明 / 講談社選書メチエ

    平治の乱の実像を実証的に検討

  • 公的所蔵

    六波羅蜜寺

    京都府京都市東山区

    平家の京都拠点、清盛坐像を所蔵

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第十章 — 関連レポート

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