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宝治合戦——時頼はいかに三浦一族を滅ぼしたか
1247年6月5日、鎌倉。有力御家人・三浦泰村の一族は、時頼の急襲を受けて法華堂に立て籠もり、五百人が自刃した。二十一歳の若き執権が北条氏の権力集中を完成させた一日を辿る。
北条時頼宝治合戦三浦氏
1247年6月5日(宝治元年六月五日)、鎌倉。北条時頼は執権就任からわずか一年、二十一歳。この日、時頼は御家人筆頭格の三浦泰村一族を急襲し、一日で滅ぼした。数百年続いた三浦一族が、鎌倉幕府の中枢から消えた瞬間である。
三浦氏の位置
三浦氏は源頼朝挙兵以来の有力御家人で、鎌倉幕府成立期から幕政の中核を担った家である。三浦泰村は時頼と同様に幕府評定衆の中心的存在で、外戚関係(時頼の妻が泰村の姪)もあった。
しかし北条氏の権力集中が進む中で、有力御家人としての三浦氏の存在は、得宗政治の完成に対する潜在的障害となっていた。
合戦の経緯
1247年6月5日早朝、時頼は挑発と急襲を組み合わせて三浦邸を包囲した。泰村一族と縁者たち約五百人は、頼朝の墓所である法華堂(現在の鎌倉市二階堂)に立て籠もった。
時頼側の攻撃と包囲の中で、泰村は一族と共に頼朝の墓前で集団自刃した。合戦は同日中に決着した。
得宗政治の完成
宝治合戦の結果、鎌倉幕府における有力御家人の抵抗勢力は事実上消えた。時頼を頂点とする北条氏得宗家(総領家)が幕政の実権を独占する構造。後世「得宗政治」と呼ばれる体制。
が完成した。以後、鎌倉幕府の統治は得宗を中心に運営され、この構造は次代の時宗(本サイト id 29)による蒙古襲来対応の基盤となる。三浦一族の滅亡は、鎌倉幕府の権力構造を根本的に転換した事件だった。
"三浦泰村以下、頼朝御廟の前に自ら害す。"
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吾妻鏡
鎌倉幕府編纂
宝治合戦の経緯を年代順に記録
- 学術文献
北条時頼
高橋慎一朗 / 吉川弘文館(人物叢書)
宝治合戦の政治構造を実証的に検討
- 公的所蔵
第十章 — 関連レポート
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