資料No. SA-0058
侍アーカイブ
北条時頼
Hōjō Tokiyori
鎌倉幕府五代執権
第一章 — 人物概要
| 氏名 | 北条時頼 |
|---|---|
| 英名 | Hōjō Tokiyori |
| 出身 | 日本 |
| 生没年 | 1227–1263 |
| 性別 | 男性 |
| 世紀 | 13世紀 |
| 家・役職 | 侍 |
| 肩書 | 鎌倉幕府五代執権 |
第二章 — 経歴
1227年(安貞元年)、北条時氏の子として生まれる。祖父は三代執権・北条泰貞、父・時氏は早世した。1246年(寛元四年)、二十歳で四代執権・北条経時の跡を継ぎ五代執権に就任。同年、前将軍・藤原頼経を京都に送還し、翌1247年(宝治元年)に有力御家人・三浦泰村を宝治合戦で滅ぼした。
北条氏の得宗家(総領家)による権力集中「得宗政治」を確立した。1252年、時頼は皇族出身の宗尊親王を初の皇族将軍として鎌倉に迎え、将軍職と得宗の役割分担を明確化した。1256年、三十歳で執権職を辞任し出家、法名・道崇。以後も政治の実権は保持し続けた。
禅宗を保護し、鎌倉に建長寺(1253年開山)を建立、蘭渓道隆ら宋僧を招聘した。1263年(弘長三年)没、享年三十七。子は八代執権・北条時宗(本サイト id 29)となり、蒙古襲来を迎えることになる。
第三章 — 年表
第四章 — 名言
“民のなげきを聞かずしては、政をなすべからず。”
第五章 — 逸話
[A]鉢の木伝承
室町期成立の謡曲『鉢の木』は、諸国を廻る旅僧姿の時頼が上野国佐野で貧しい元武士・佐野源左衛門常世の家に一夜の宿を借り、常世が寒さの中で家宝の鉢植えを薪として焚いてもてなしたという物語を伝える。後日、鎌倉に召された常世は時頼から旧領を返還され新たな所領を与えられた、というのが物語の骨格である。
時頼が自ら諸国を廻って民情を視察したとする「時頼廻国伝説」自体は江戸期に発達した伝承で、史料的裏付けは薄い。しかし時頼が民政に関心を持ち、御家人の困窮を救う政策を採ったこと自体は複数の同時代史料で裏付けられる。
第六章 — 影響と遺産
時頼期に確立された得宗政治は、以後の鎌倉幕府の統治構造を規定し、子の時宗(本サイト id 29)による蒙古襲来対応の基盤となった。時頼の禅宗保護は日本禅宗史の画期で、鎌倉五山制度の礎を築いた。建長寺は現在も臨済宗建長寺派大本山として存続する。
「鉢の木」に代表される時頼廻国伝説は、後世の日本人に「民の暮らしを見る為政者」の理想像として広く受容され、室町謡曲・江戸期歌舞伎・現代の教科書まで伝えられている。史実の時頼と伝説の時頼が並存する稀有な人物となった。
第七章 — 主な功績
- [01]五代執権就任(1246)
- [02]宝治合戦(1247)
- [03]皇族将軍制の確立(1252)
- [04]建長寺開山(1253)
- [05]得宗政治の確立
第八章 — 参考資料
原典・公的アーカイブ
- 一次資料
吾妻鏡
鎌倉幕府編纂
時頼期の政治動向を年代順に記録する基本一次史料
- 学術文献
北条時頼
高橋慎一朗 / 吉川弘文館(人物叢書)
現代の時頼研究の代表的伝記
- 公的所蔵
おすすめ書籍
第十章 — 関連レポート
SA-RPT
宝治合戦——時頼はいかに三浦一族を滅ぼしたか
1247年6月5日、鎌倉。有力御家人・三浦泰村の一族は、時頼の急襲を受けて法華堂に立て籠もり、五百人が自刃した。二十一歳の若き執権が北条氏の権力集中を完成させた一日を辿る。
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建長寺開山——時頼が鎌倉に植えた禅
1253年、時頼は鎌倉に日本初の本格的禅寺・建長寺を開いた。宋から招かれた蘭渓道隆を開山とし、以後の日本禅宗の中心地となる寺の始まりを辿る。
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鉢の木——時頼廻国伝説はどう生まれたか
室町謡曲『鉢の木』は、旅僧姿の時頼が上野国佐野で佐野常世に一夜の宿を借り、常世が家宝の鉢を薪として焚いたと伝える。史実と伝説の関係、そして『民を見る為政者』の理想像がなぜ時頼に投影されたのかを辿る。


