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資料No. SA-0073

侍アーカイブ

北条義時

Hōjō Yoshitoki

鎌倉幕府二代執権

第一章 — 人物概要

氏名北条義時
英名Hōjō Yoshitoki
出身日本
生没年1163–1224
性別男性
世紀13世紀
家・役職
肩書鎌倉幕府二代執権

第二章 — 経歴

1163年(長寛元年)、伊豆国の武士・北条時政(本サイト id 70)の子として生まれる。姉は源頼朝(本サイト id 23)の妻・政子(本サイト id 24)である。1180年の頼朝挙兵に若くして従い、鎌倉幕府創設の過程を支えた。頼朝の死後、幕府の実権は将軍から有力御家人の合議へ移り、北条氏がその中心に位置した。

1205年(元久二年)、父・時政が後妻・牧の方と実朝排除を企てた牧氏事件が起きると、義時は姉・政子と結んで父を失脚させ、政所別当(執権)の地位を継いだ。1213年(建暦三年)、有力御家人・和田義盛を和田合戦で滅ぼし、侍所別当をも兼ねて政所・侍所の両権を掌握した。

1219年に三代将軍・実朝が暗殺されて源氏将軍が断絶した後、1221年(承久三年)、後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発した(承久の乱)。義時は姉・政子と共に大軍を京へ送って朝廷軍を破り、上皇を配流、六波羅探題を設置した。武家が朝廷を実力で下したこの勝利は、日本の権力構造を根本から転換させた。

1224年(元仁元年)6月、鎌倉で急死。享年六十二。子・泰時が三代執権として体制を継ぎ、御成敗式目を制定して執権政治を完成させた。

第三章 — 年表

1163伊豆国に生誕、北条時政の子
1180頼朝挙兵に従軍
1205牧氏事件で父・時政を失脚させ執権を継ぐ
1213和田合戦で和田義盛を滅ぼす
1219実朝暗殺、源氏将軍が断絶
1221承久の乱で朝廷軍を破る
1224鎌倉にて急死、享年六十二

第四章 — 名言

君を怨むにあらず。武家の世を守らんがために、兵を京に向くるのみ。

-- 承久の乱における義時の立場として後世に伝わる(趣旨)

第五章 — 逸話

[A]承久の乱——武家が朝廷を下した瞬間

1221年、後鳥羽上皇が北条義時追討の院宣を発すると、鎌倉の御家人は朝敵となることへの恐れに動揺した。このとき姉・政子が頼朝以来の御恩を説いて御家人の結束を訴え、義時は迷わず京への進軍を決めた。守勢に回れば朝廷の権威に呑まれると見た義時は、子・泰時と弟・時房を大将に、東海・東山・北陸の三道から大軍を京へ向かわせた。

幕府軍はわずか一月ほどで京を制圧し、上皇の挙兵は軍事的にあっけなく崩れた。乱後、義時は後鳥羽上皇を隠岐へ配流し、皇位継承にまで介入、京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視下に置いた。天皇家が武家に実力で屈したこの事件は、以後六百年以上続く武家政権の優位を決定づけた画期である。

第六章 — 影響と遺産

北条義時は、父・時政が築いた執権政治を確立し、承久の乱で武家政権の優位を決定づけた鎌倉幕府の実質的完成者である。父・時政が一代で失脚したのとは対照的に、義時は御家人の合議を尊重しつつ実権を握る慎重な統治で、北条氏の権力を長期にわたって安定させた。

1213年の和田合戦で政所・侍所の両権を掌握し、1221年の承久の乱で朝廷を実力で下した。この勝利により、政治の実権は明確に武家へと移り、日本は本格的な武家政権の時代に入った。義時の子・泰時は御成敗式目(1232)を制定し、以後北条氏九代の執権政治が鎌倉幕府を運営した。

義時は、父・時政(本サイト id 70)や姉・政子(本サイト id 24)ら北条氏の主要人物の系譜の中核に位置する。孫には時頼(本サイト id 58)・時宗(本サイト id 29)がいる。伊豆の願成就院は北条氏の氏寺で、義時ゆかりの地として知られる。

第七章 — 主な功績

  • [01]牧氏事件での執権継承(1205)
  • [02]和田合戦による両別当兼任(1213)
  • [03]承久の乱の勝利(1221)
  • [04]六波羅探題の設置
  • [05]北条氏執権政治の確立

第八章 — 参考資料

原典・公的アーカイブ

  • 一次資料

    吾妻鏡

    鎌倉幕府編纂

    義時期の政治動向を年代順に記録する基本一次史料

  • 学術文献

    北条義時

    岩田慎平 / 中公新書

    現代の義時研究を踏まえた評伝

  • 公的所蔵

    願成就院

    静岡県伊豆の国市

    北条氏の氏寺、義時ゆかりの地

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